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チェコ最新情報



 
初夏の注目イベント


 この夏、チェコ各地で予定されている注目のイベントは以下の通り。(2011年6月)

 
 
◆ ストラズニツェ・フォークロア・フェスティバル

 伝統あるチェコ最大規模のフォークロア・フェスティバル。この地方に伝わる歌や舞踏、カラフルな民族衣装の数々に彩られる華やかな祭典だ。

 
Straznice Folklore Festival 2011
開催日  2011年6月23〜27日
開催地  ストラズニツェ
URL  www.nulk.cz

 

◆ スメタナ・リトミシュル音楽祭

 今年で53回目を迎える音楽祭。「プラハの春」の次に伝統を誇る。メインステージには世界遺産のリトミシュル城の中庭が使われ、野外音楽祭としては国内最大規模の音楽祭だ。オープニングはベートーベンの『第九』、チェコフィルの『売られた花嫁』など、オペラ、声楽がフューチャーされたプログラムとなっている。

 
Festival Smetanova Litomyšl
開催日  2011年6月10日〜7月5日
開催地  リトミシュル
URL  www.smetanovalitomysl.cz

 

◆ カルロヴィヴァリ国際映画祭

 中欧で最も権威あるAランクの国際映画祭。毎年多くのスターたちが来場し、1万人にも及ぶ観客を動員している。国際コンペ参加作品は、映画祭の2週間前にウェブサイトで発表される。

 
Mezinárodní Filmový Festival Karlovy Vary
開催日  2011年7月1〜11日
開催地  カルロヴィヴァリ
URL  www.kviff.com

  その他のイベントは、http://Kudyznudy.cz を参照。
 

 

 
プラハ市内交通料金改定


 プラハでは地下鉄、トラム、バスが共通のチケットで乗り継ぐことが出来る。
その料金が7月1日より改定されることとなった。チケットは日本と異なり、乗車時に改札機で時刻を打刻しないと有効にならない。チケットに乗車時刻の印字がないと有効乗車券と認められないので注意が必要だ。なお、6歳以下は無料となっている。(2011年6月)

 
乗車券 大人 子供
1回券 (30分有効) CZK  24 CZK  12
1回券 (90分有効) CZK  32 CZK  16
24時間券 CZK 110 CZK  55
72時間券 CZK 310 -
荷物用乗車券 CZK  16 -
 
Dopravni podnik hlavniho města Prahy
URL  www.dpp.cz/en/fares
 

 

 
生誕800年の聖人「アネシュカ」


 旧市街北西のヴルタヴァ川の程近く、静かな区域にある「聖アネシュカ修道院」をご存知だろうか。

 この修道院は近代になってから復元されたものの、チェコに現存する古いゴシック様式建築の一に数えられている。現在、この建物はチェコと中欧の中世美術が展示された国立美術館の分館の一つとなっているが、ここまで足を伸ばす人はあまり多くない。だが、この修道院に名前に冠された「アネシュカ(Svatá Aneźka Česká)」こそ、チェコで敬愛される聖女なのだ。

 チェコ・プシェミスル朝オタカル1世の末娘としてこの世に生を受けたアネシュカは1211年生まれ。1281年に没するまで、チェコのみならずヨーロッパ政治に関わった。結婚相手の候補には、当時の皇帝の息子やイングランド王も挙がったか、いずれも結婚には至らなかった。その後、皇帝フリードリヒ自身も求婚しましたが、アネシュカはそれを拒んだと言われている。

 父王が没したのは1230年のこと。当時ヨーロッパで広がっていた清貧を旨とする修道院の活動に共鳴し、アネシュカは父王の死後に修道院に入り、自らもこうした活動を実践した。
施療院は病院としての機能だけではなく、貧民や旅人に休息を与える場でもあったことから、アネシュカはまず急速に拡大するプラハの町に急務であった施療院を設立。そして、この施療院の経営と運営に当たる施設として、聖フランチェスコ会系の男女それぞれの修道院を建設した。それが聖アネシュカ修道院だった。

 その後、新たな修道会を創立するために尽力。紆余曲折を経て1250年に教皇から許可を得て「紅星騎士団」創立された。これはチェコで生まれた唯一の修道会で、宗教活動に没頭していただけではなく、アネシュカはチェコ王家においても良きアドヴァイザーであったようだ。

 また、兄ヴァーツラフ1世の息子、プシェミスル・オタカル2世が父に反旗を翻した後に頼ったのもアネシュカだった。アネシュカのとりなしもあって親子は和解した。その後、そのオタカル2世が王位を継承し、皇帝位をめぐってハプスブルク家と争い敗北していく過程をアネシュカは見守ることとなった。アネシュカの死後、列聖を求める声が上がったが、それが実現したのは1989年11月12日のことだった。

 現在、カレル橋の袂にある「アッシジの聖フランチェスコ教会」は、騎士修道会が拠点を移した跡に建てられた。モラヴィア地方のチシュノフには、初期ゴシック建築を代表する建造物で、アネシュカの母であるコンスタンツェが建てた「シトー会修道院(ポルタ・コエリ)」がある。 (参考:薩摩秀登著『物語チェコの歴史』中公新書) (2011年4月)

 

 

 
国立技術博物館がリニューアルオープン!


 2006年から改修のために閉館されていた「国立技術博物館」が、改修を終え2月16日にリニューアルオープンした。

 展示は部門別に行われていて、輸送のホールでは自動車や航空機、オートバイなどのヒストリカル・カー、建築部門ではチェコ建築のデザインの粋が、また印刷技術、写真、天文学などについての展示もあり、かつて世界第7位の工業力と優れたデザインを誇ったチェコの新たな側面が観られる。(2011年3月)

 
Národní technickè muzeum
開催日 火〜日  10:00〜18:00
木のみ  10:00〜20:00
休館日  月曜
入館料  CZK 170
住所  Kostelní 42, 170 78 Praha 7
URL  www.ntm.cz
問い合わせ先  Tel:+420-220-399111 Fax:+420-220-399200
 E-mail:info@ntm.cz
 

 

 
チェスキー・クルムロフ城に博物館がオープン!


 去る2011年1月11日、チェスキー・クルムロフにこの地を代々支配してきたロジュンベルク家、エゲンベルク家、シュヴァルツェンベルク家ゆかりの品々を集めた新たな博物館がオープンした。

 ヨーロッパ経済領域とノルウェーからの支援を受け、4千万チェココルナを投じて開館に至った同博物館があるのはチェスキー・クルムロフ城。博物館となった建物は第二のコートヤードに位置した部分で、城の中でも一番古く、また価値ある部分が公開されている。

また、新たな照明設備が整備される一方、昔ながらの明かりを再現しての展示も試みられており、城主のパヴェル・スラフコ氏も「19世紀のこの城の黄金時代をそのままご覧いただける展示」と胸を張る。なお、同博物館はガイドなしで見学が可能。オーディオガイドのサービスも行っている。(2011年2月)

 
Hradní muzeum
開館時間 10〜3月  9:30〜16:00
4〜6月  9:00〜17:00
7〜9月  9:00〜18:00
休館日  月曜
入館料  Kč 130
住所  Zámek 59, 38101 Český Krumlov
URL  www.ckrumlov.cz/castlemuseum
問い合わせ先  Tel:+420-380-704-711 Fax:+420-380-704-710
 E-mail:castle@ckrumlov.cz
 

 

 
プラハ城を守る女性衛兵


 プラハ城の門の前で表情も変えず、また微動だにせず城を守っているのが衛兵。衛兵交代の儀式は見ていると、荘厳な気持ちになる。

 ファンファーレ付きの大がかりな交代式は正午に行われが、人ごみを避けて見物するのであれば正午を除く毎正時に行われる交代式が良いだろう。衛兵勤務約450人のうち4人とわずかだが、プラハ城の衛兵には女性もいる。運がよければ、そうした女性衛兵の姿を見ることができるかも知れない。

 チェコでは2004年に徴兵制度が廃止され、軍隊は職業軍人のみとなった。これに伴いプラハ城の衛兵には男女にかかわらず志願できるようになった。
とはいうものの志願条件に男女の区別は無い。身体条件は身長が178センチから188センチ、体重は身長に対応(過度のオーバーは不可)していること。そして、心身ともに良好であること。体力テストや精神チェックも行われる。

 学歴は高卒以上で、士官は大卒であることが最低条件。刺青、ピアス、イヤリング、髭は認められておらず、髪形もきちんと整え、もみあげは耳の半分の長さまでという規定もある。もちろん、女性もきちんと整えた短髪が条件と個別に規定されている。そう考えると女子のハードルは、かなり厳しいものであることがわかる。

 制服も男女の区別はなく、現在のデザインは、1990年に芸術家のテオドル・ピシュチェクによるもの。夏物はともかくとして、冬服はかなり重そうだ。
最初に採用された女性は2名。うち1名は入隊前にはラハ市警察に勤めていた女性で、現在も勤務を続けているという。以来、現在に至るまで合計で7名の女性が入隊している。

 衛兵の仕事はもちろん、門番として立っているだけでなく、プラハ城のセキュリティー全般を担っている。バイク隊もあり、犬を伴う警護活動や城内および庭園のチェックもあるそうだ。
5月8日と10月28日の年に2回には、通常は公開されていない官庁スペースの見学が許されているのだが、その際も大勢の見学者で賑わう城内の警備をし、案内等のサービス業務を行っている。 (2011年2月)

 
Hradní Stráž
URL  www.hrad.army.cz
 

 

 
プラハ城の聖ヴィート大聖堂、南の塔が公開を再開


 丘の上にそびえるプラハ城にある聖ヴィート大聖堂の南側の塔の公開が再開された。
60メートルの高さまでは287段。丘のさらに上から見える景色を確かめに、上ってみてはいかがだろうか。 (2010年10月)

 
Katedrála sv. Víta
時間  9:00〜16:30
入場料  Kč 100
URL  www.hrad.cz
 

 

 
チェコの優雅な伝統、スパリゾートの楽しみ


 リラックスしたい、癒やされたい・・・という方にこの秋お勧めしたいのがチェコのスパ旅行だ。

 チェコは、国内各地に鉱泉のでる「温泉大国」。スパタウンには古くから多くのヨーロッパのセレブが集まるリゾートとして知られ、王侯貴族はもとよりゲーテ、ショパン、ベートーベンなど訪れた有名人は数知れない。ゲーテの「イタリア紀行」もカルロヴィ・ヴァリから始まったと伝えられている。

 中でも有名なのがカルロヴィ・ヴァリ、マリアーンスケー・ラーズニェ、フランチシュコヴィ・ラーズニェを擁する西ボヘミアの一帯で、毎年国内外から多くの人々が訪れている。世界で初めてラドン鉱泉をとりいれたヤーヒモフ温泉もこの地域にある。バロック建築に囲まれた優雅なスパタウンにご注目を!(2010年10月)

 
 
◆ カルロヴィ・ヴァリ

 14世紀に神聖ローマ帝国皇帝、カレル4世によって開かれた世界的にも有名なスパタウン。
飲泉が中心の湯治場で、ここでは毎年カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭が開催されている。また、チェコグラスの一流ブランドであるモーゼルグラス社の本拠地となっている他、薬草リキュールやベヘロフカでも有名だ。

 
Karlovy Vary
URL  www.karlovy-vary.cz

 
◆ マリア−ンスケー・ラーズニェ

 ネオバロック様式を中心とする美しい建築のコロナーダが、19世紀そのままに残されている。 100以上もの源泉がある他、キンジュヴァルト城 オーストリアの宰相メッテルニッヒが住んでいたことで知られ、 毎年多くの見物客が訪れている。

 
Mariánské Lázně
URL  www.marianskelazne.cz
 

 

 
ブルノの「トゥーゲンダート邸」休館のお知らせ


 ブルノにある「トゥーゲンダート邸」は、改修のため一時的に一般への公開を中止している。 工事の期間は2年程度になるものとみられているが、この間の見学は不可能なのでブルノ観光を予定している人は注意が必要だ。 (2010年2月)

 
Vila Tugendhat
住所  Černopolni 45, 61300 Brno
URL  www.tugendhat-villa.cz
問い合わせ先  E-mail:muzeum.brno@spilberk.cz
 

 

 
コラム「国立博物館新館」


 国立博物館本館と道を隔てた隣、国立オペラ劇場との間にある。上階部分が下にかぶさっているのが特徴的な建物で、かつてはここにチェコスロヴァキア時代の連邦議会が置かれていた。建物は新たに国立博物館となるため2011年末から改修工事が行われるが、それまで内部の見学が可能になった。

 この付近は、カレル4世時代に築かれた壁が19世紀に入り取り壊された後に木製の劇場が建てられたが、1920年代にプラハ証券取引所(1861年開設)がこの地所を購入し、取引所が建設された。現在も残されている建物の基本部分は、この時代の証券取引所の建物を改修したものだ。

 キュビズム建築で有名なヤン・コチェラの弟子、ヤロスラフ・レスレル設計のモダン・クラシック様式の建物は、1938年にオープニンしたがドイツの占領で証券取引所の活動が停止され、それ以降は軍の倉庫やドイツ劇場(現国立オペラ劇場)の倉庫、そして病院へと次々に変わっていった。1946年からは議会が置かれた。

 議会があった当時は、レトナーの丘に新しい議事堂を建てる計画があり、一時的な場所としてこの場所が選ばれたが、1960年代には移転計画そのものが白紙となり、本格的な議事堂としての整備が始められた。

 その際、ヴァーツラフ広場方向に建っていた隣の2棟の建物が取り壊わされ、従来のビルに隣接して新たなビルが建てられた。それと同時に、両方の建物の上を覆うような形で4本の柱で支えられた2つの階が設けられた。
このような工法はベルギー人の考案者の名前からフィーレンディールトラスと呼ばれ、橋の建設に用いられるが、ここではビル建設に使用されている。

 改修後は1973年から1992年まで連邦議会がここで開かれ、その後(1995年〜2009年)はラジオフリー・ヨーロッパがこの建物に入っていたという。これを後押ししたのは、当時のハヴェル大統領だった。この場所で、実に様々な歴史的な出来事が繰り広げられていた事がわかる。
最上階にある委員会室からはプラハ城が一望。1階にあるカフェは以前もレストランで、議員たちの憩いの場になっていたそうだ。

 この建物は、将来的に隣の本館と地下通路で結ばれる予定で、現在はその愛称を募集している。改修は2016年に終了する予定で、展示室の以外にも会議室やマルチメディア室を備えた総合学術施設となる予定だ。 (2009年10月)

 
Národní muzeum
開館時間 月〜土  10:00〜18:00 (土のみ 〜19:00)
 11:00〜19:00
休館日  第1火曜
入館料  Kč 150
住所  Václavské náměstí 68, 115 79 Praha 1
URL  www.nm.cz
問い合わせ先  Tel:+420-224-497-111 / 224-497-352
 E-mail:nm@nm.cz
 

 

 
チェコの温泉保養地 4 「カルロヴィ・ヴァリ」


 チェコの温泉保養地といえば、19世紀にはすでにハンガリー・オーストリア帝国内最高の保養地だった「カルロヴィ・ヴァリ」。
カルロヴィ・ヴァリと言えば、ガラスのモーゼル、ミネラルウォーターのマットーニ、13番目の源泉といわれるベヘロフカなどが有名だが、中でも伝統と格式を誇り、カルロヴィ・ヴァリの象徴とも言えるのが、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭の主会場にもなっている「グランドホテル・プップ」だろう。

 19世紀にホテル起業したプップ家といえば、1760年にヴェルトルスィからカルロヴィ・ヴァリに出てきたヤン・イジー・ポプ(ヨハン・ゲオルク・プップ)にまで遡る。妻であるフランチシュカが、「チェコホール」と呼ばれていた建物を購入し大々的な改修を行い、やがて当時のカルロヴィ・ヴァリの社交サロンの中心へと発展。それが、現在のホテルの礎となった。 その後、一時的にチェコホールはプップ家の手を離れることになるが、徐々に買い戻しが行われた。プップ家は、周辺の土地家屋も入手しながら事業を拡大していった。その間、カルロヴィ・ヴァリ天然水の輸出で名を上げていたマットーニ家と婚姻により親戚関係となった。

 19世紀後半には一族経営のGHプップ会社が設立され、1890年に株式会社化された。その後、カフェ、レストラン、ビリヤードルームを備え、周辺の家屋やホテルを買収したが、1892年から1993年にかけチェコホールも含めて解体。ウィーンの建築家の設計の下、グランドホテル・プップを建築し、オープンに至った。

 プップ家は、ホテル経営に力を注ぐだけではなく、カルロヴィ・ヴァリ社会に多大な寄付を行い、特にアントン・プップ(1841〜1907)は町の名士として知られている。その後ホテルは1910年、1922年から23年にかけて改修され、1925年にはコンサートホールが増築された。このホールには、モラヴィアのクルノフにあるリーゲルークロス社のオルガンが導入されている。

 1951年にはホテルの名称が「グランドホテル・モスクワ」に変更されたが、1989年に元の名前に戻された。 現在「グランドホテル・プップ」には各国の貴賓が宿泊し、国際会議の会場としても利用されている。またり、映画のロケ地としても人気が高い。 (2009年7月)

 
GRANDHOTEL PUPP
住所  Mírové náměstí 2, 36091 Karlovy Vary
URL  www.pupp.cz
問い合わせ先  Tel:+420-353-109111 Fax:+420-353-224032
 E-mail:pupp@pupp.cz
 

 

 
チェコの温泉保養地 3 「マリアーンスケー・ラーズニェ」


 西ボヘミアの三大温泉保養地は以前から有名だが、古くはオーストリア・ハンガリー帝国の時代にも人気の観光地だった。
20世紀初頭の統計によると、ハンガリーを除く帝国内の保養地で客数の多い上位10都市の中に、カルロヴィ・ヴァ(1位)、マリアーンスケー・ラーズニ(3位)、フランチスコヴィ・ラーズニェ(8位)がランクイン、宿泊者数のうち1週間以上滞在する人の占める割合が95%以上というデータが残っている。最近の統計でもカルロヴィ・ヴァリ県への外国人観光客の平均滞在日数は6.7〜7日。他県の平均が3日前後であることを考えると、長いといえる。

 今回紹介するのは、マリアーンスチェコでは比較的新しい温泉保養地ケー・ラーズニェ(独語名:マリエンバート)だ。 源泉は7〜10℃の弱酸性の冷泉。町のある地域はテプラーにあるプレモントル修道会に属しており、12世紀にはその地域の水が病気治療に効くことが修道士たちに知られていたが、森深い地であったことから世間に知られないまま時が流れた。18世紀後半になってようやく、この地の鉱泉が病気治療に効果的であることが知れ渡り、活用しようという機運が起こった。

 1805年に最初の湯治客を迎え、それ以降スパハウス・パヴィリオン、コロナーダ等が建てられ町は発展した。1872年にはプルゼニ経由でプラハやウィーンと鉄道で結ばれ、1898年にはカルロヴィ・ヴァリ間の路線も開通した。
温泉保養地では治療だけではなく、社交、スポーツ、文化活動などが盛んに行われているが、中でもマリアーンスケー・ラーズニェのゴルフ場は別格だ。この地をいたく気に入った英国のエドワード7世の肝いりにより1905年にオープンした、チェコで最も古い格式のあるゴルフ場だ。コースは全18ホール。当時のスコットランド様式のクラシックタイプのゴルフ場で、2003年にエリザベス女王から「ロイヤル・ゴルフ・クラブ」のタイトルを名のることを許された。(2009年4月)

 
Mariánské Lázně
URL  www.marianskelazne.cz/cs
 

 

 
チェコの温泉保養地 2 「ルハチョヴィツェ」


 モラヴィア地方最大の温泉保養地、ルハチョヴィツェ。17世紀後半に最初の源泉が掘られ、ここの水が病気治療に効くということが知られるようになった。やがて18世紀末になると、湯治客のための施設が建つようになり、次第に町は賑わいをみせるようになったが、同時に湯治客から長期の滞在にはあまりにもお粗末だった施設に対する不満も出てきた。

 1902年には鉄道がルハチョヴィツェまで延び、その3年後にはプラハ、ブルノ、オロモウツから直接列車でルハチョヴィツェにアクセスできるようになった。そこで、当時の町の名士たちは近代的な設備を持つ温泉療法施設を設置し、町を文化・社交生活を営める温泉保養地にすることを決意した。そのために招聘された建築家が、スロヴァキア人のドゥシャン・ユルコヴィチ(1868〜1947)だった。

 現在のチェコとスロヴァキアの国境近くの村で生まれたユルコヴィチは、ウィーンの工業専門学校で建築を学び、卒業後実務に入る。1895年にプラハで開かれた民俗博覧会では、チェコ人建築家のミハル・ウルバーネクのアシスタントを勤めた。
イギリスのアーツ&クラフト運動の影響を受けた彼のスタイルは、モラヴィア地方の民俗芸術の様式をセセッション様式に取り入れた個性的なものと言われている。

 現在、ルハチョヴィツェにはこのユルコヴィチ以外にも、ユルコヴィチ設計の建物を改築したモダニズム的味わいを持つインハラトリウム(治療施設)などがあり、これらの建物を含む町全体をユネスコの世界遺産に登録申請を行っている。

 ルハチョヴィツェの源泉は、10〜12℃で多くのミネラル物質を含み炭酸ガスが溶け込んだ良質な鉱泉だ。ここをこよなく愛した有名人も多く、その中の一人に作曲家のレオシュ・ヤナーチェクがいる。ヤナーチェクはこの地を20回以上訪れここでの社交生活を楽しみ、作曲に勤しんだという。また、スメタナの2番目の妻、ベティはルハチョヴィツェに埋葬されている。(2009年4月)

 
Luhačovice
URL  www.luhacovice.cz
 

 

 
チェコの温泉保養地 1 「ヤーヒモフ」


 チェコには多数の温泉保養地がある。日本と違って飲泉が主となるが、どこかのんびりとした雰囲気は日本とそう変わりはないだろう。今回紹介するのは、そんな温泉地の中から化学の進歩に貢献した町、ヤーヒモフだ。

 西ボヘミア地方にあるヤーヒモフは、16世紀初頭に銀が発見された後、1516年に町が造られた。ヤーヒモフという名前は、その翌年に聖ヨアヒムに因んで付けられた。

 町は銀の採掘で急速に発展し、チェコ、ドイツの各地から鉱夫が集まった。1533年町の人口は1万8千人。 当時としてはプラハに次ぐ人口で、それまで銀生産の中心地であったクトナー・ホラは、その地位をヤーヒモフに譲り渡す格好となった。
さらに銀貨の鋳造も行われ、これは「タール」「ヨアヒムスタール」「トラル」などと呼ばれ、後に通貨「ドル」の語源になることはよく知られている。

 しかし、16世紀後半には早くも銀採掘量が減り始め町の繁栄にも陰りが見えてきたが、それを決定付けたのが三十年戦争だった。 ヤーヒモフの町には次々と軍隊が駐留し、その後も採掘は細々と続けられるも、1671年には貨幣鋳造所が閉鎖、1871年に採掘は完全に停止した。

 そんな町に再び発展の兆しが現れたのは1840年代のこと。この頃、銀のほかに採掘されていた黒塊(ピッチブレンド=ウランを含む鉱石)からウランが抽出できるようになった。
西ボヘミア地方ではガラスや磁器生産が盛んで、ウランは製品を黄色や金色に彩色するために威力を発揮した。ウランの採掘は経済的にも上昇するきっかけとなり、19世紀から20世紀の転換期に町は第2の発展期を迎えた。

 この頃、ヤーヒモフにかかわるのが、女性で初のノーベル賞を受賞した化学者のマリー・キュリーだ。彼女は夫と共にヤーヒモフでウランを抽出した後に廃棄されたピッチブレンドから、ラジウムとポロニウムを発見した。
同時にウラン鉱からのラジウム水が病気治療にとても効用があることが発見され、1906年に湯治施設が設置された。

 ヤーヒモフのウラン鉱山は1960年代までに採り尽くされて廃鉱になったが、現在29〜36℃の4つの源泉から温泉が引かれてた。ヤーヒモフの名はラジウム温泉と共に広まり、現在も世界各地から多くの湯治客を迎えている。 (2009年3月)

 
Jáchymov
URL  www.jachymov.cz
 

 

 
リベレツの「イェシュチェト山」


 2009年にノルディックスキー選手権が開催されるリベレツの町。ジャンプ競技の会場は、標高1012メートルのイェシュチェト山の麓にある。

 19世紀にはリベレツ市民に人気の遠足スポットとなっていたイェシュチェト山には、観光客を対象に食事を提供する山小屋や、展望台が建てられ営業していた。また、1907年にはリベレツの建築家により23メートルの塔を持つ石造りの本格的なホテルが建てられたが1963年の火事で消失し、それに代わる新しい建物が建築家カレル・フバーチェクの設計により建てられた。
それが現在、観光局のパンフレットにもなっている93メートルのテレビ塔がある円錐形の「ホテル・イェシュチェト」だ。

 「ホテル・イェシュチェト」は、1階は一般に開放されており、上階がレストランと宿泊専用フロアになっている。
設計者のフバーチェクは、1969年にこの建築で国際建築家協会のオーギュスト・ペレ賞を受賞しており、政府は建物をユネスコ世界遺産リストに登録申請を行っている。

 イェシュチェト山周辺にはスキー場やハイキングコースも整備されているので、冬はスキーやスノーボードを、夏はハイキングを楽しむ人々でにぎわう。山頂からの眺望も格別で、天気の良い日には144キロ遠方にあるヴィソチナ地方の山やプラハのテレビ塔、ドイツ国境の街ゲルリツなどが見られるという。また、四季折々で異なった眺望が楽しめ、日本の祝日にもなっている春分の日と秋分の日には、チェコ最高峰のスニェシュカ山の背後から、黄金色に輝きながら浮かび上がる朝日が期待できる。

 イェシュチェト山へは、リベレツの中心から山の麓までトラム(約20分)を利用。そこから、1933年に開通したチェコで2番目に古いとされるロープウェイに乗換えれば、4分程で山頂に到着する。 (2009年1月)

 
Hotel Ještăd
URL  www.jested.cz
 

 

 
フルボカ城が冬季の見学をスタート


 チェコでも屈指の美しさを誇るフルボカ城が、冬の観光客受け入れを開始し、城内にある9の部屋が見学できるようになった。
17世紀そのままの木目の美しい城内には、陶器、銀器、絵画、暖炉、テキスタイルなどの調度品が展示されている。また、見学コースにには、20世紀初頭に当時の持ち主により設置された水洗トイレも含まれている。(2008年12月)

 
Hluboká
開館時間 5〜8月  9:00〜12:00、12:30〜17:00
4、9、10月  9:00〜12:00、12:30〜16:30
11〜2月  9:00〜12:00、12:30〜15:00
休館日  月曜 (7、8月を除く)、日曜(11〜2月のみ)、3月
入館料 外国語 大人  Kc 40〜230
子供  Kc 25〜160
オーディオガイド 大人  Kc 40〜185
子供  Kc 25〜120
住所  Bezručova 142, 37341 Hluboká nad Vltavou
URL  www.zamek-hluboka.eu
問い合わせ先  Tel:+420-387-843-911 Fax:+420-387-965-526
 E-mail:hluboka@budejovice.npu.cz
 

 

 
マーラーの生家がリニューアル・オープン!


 チェコ生まれの作曲家、グスタフ・マーラーは、1860年ホンポレッツ近くのカリシュチェという村で生まれ、生後2ヶ月の時に一家はイフラヴァに移った。現在、イフラヴァにあるマーラーが子供の頃を過ごした家が修復され、一般に公開されている。(2008年12月)

 
Dum Gustava Mahlera
開館時間  10:00〜12:00、13:00〜18:00
住所  Znojemska 4, 58601 Jihlava
URL  www.mahler.cz
問い合わせ先  Tel:+420-567-167-132 E-mail:mahler@jihlava-city.cz
 

 

 
勝利の聖母マリア教会


 クリスマスから新年にかけての教会は、他の時期とは違った趣がある。そんな教会の一つが「勝利の聖母マリア教会」。ルター派の教会だった「勝利の聖母マリア教会」は、ビーラー・ホラの戦い後にカルメル会の手に渡り、カトリック教会に改修された。現在も巡礼者の絶えない教会だが、その大きな理由は教会に安置されている「プラハの幼子イエス」の人形にある。

 この人形は、幼子イエス崇拝が広まっていたスペインの貴族の娘が母から譲れたもので、チェコ貴族の元に嫁いだ際に嫁入り道具の一つとしてチェコに持ち込んだ。その後、さらにその人形を譲り受けた娘が、17世紀中頃教会に寄進した。その小さな人形が様々な奇跡を起こし、その評判がヨーロッパ中に広まって信仰の対象となったという。

 人形は非常にもろいため当初から服が着せられていたが、信仰の対象として評判になるにつれ豪華な服が多数寄進されるようになった。現在は、1655年にプラハ司教が寄進した宝石のちりばめられた王冠をかぶり、寄進された衣装を定期的に着せ替えられ安置されている。その中には、毎年クリスマスと新年に着せられるマリア・テレジアが送ったものや、上海、フィリピン、ベトナムから送られた独特な衣装もある。

 この時期、教会は特別礼拝などのため見学が制限される場合が多くなるので注意が必要だ。また、この時期だけキリストの誕生シーンを模した伝統的なベトレムが特別展示されている。場所は、カレル橋からカルメリツカー通りをペトシーンの丘へのケーブルカー乗り場向かう途中、旧市庁舎から徒歩で約45分のマラー・ストラナ地区にある。(2008年12月)

 
Kostel Panny Marie Vitezne - Prazske jezulatko
住所  Karmelitská 9, 118 00 Praha 1 - Malá Strana
URL  www.pragjesu.info
問い合わせ先  Tel:+420-257-533-646 Fax:+420-257-530-370
 E-mail:mail@pragjesu.info
 

 

 
チェコの「ダークツーリズム」スポット


 歴史上の悲劇や事故の現場となった場所を訪れる、いわゆる「ダークツーリズム」が最近注目されている。中欧地域ではポーランドのアウシュビッツが最も有名だが、それ以外にも1950年代に政治犯監獄だったヤヒモフ(Jachymov)、普墺戦争の戦場となったフラデツ・クラーロヴェー (Hradec Králové/独名ケーニヒグレーツ)、共産党支配に抗議し学生が焼身自殺を図ったヴァーツラフ広場、17世紀魔女狩り裁判が行われたヴェルケー・ロウニ城(Velké Louny)などが観光局によってリストアップされている。

 今回新たに紹介するのは、テレジンの町にある監獄だ。ここは18世紀に要塞として造られた建物が、ゲシュタポに接収され監獄として使われていた。第二次世界大戦時にはチェコのユダヤ人が一旦ここに収容され、アウシュビッツへと移送された。町の小学校はユダヤ博物館となっており、収容された子供たちの絵が展示されている。

 もう一つが、「リディツェの虐殺」の悲劇の舞台となったリディツェ村(Lidece)。1942年6月10日、ナチス秘密警察がリディツェ村を包囲し、ナチスのボヘミア総ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の報復のため、村の15歳以上の男性は全員射殺された。女性と子供も強制収容所へ送られ、村は完全に埋め立てられた。同じことが2週間後にレジャーキ村(Ležáky)でも行わている。 (2008年11月)

 

 

 
ヴィシェフラトの砲郭


 プラハ城の周りの庭園をはじめ、散策する場所に事欠かないプラハ。だが、ヴィシェフラトは格別の場所と言えるだろう。高台の公園からはプラハ城とヴルタヴァ川、プラハ市内が一望でき、町の喧騒とは無縁ののんびりとした空気が周囲を包み込んでいる。また、ここでは地下通路めぐりも体験できる。

 17世紀半ば、皇帝フェルディナント3世の命令で、ヴィシェフラトはプラハ市を守る要塞としての機能を持つように改築され、現在の姿になった。その後、オーストリア継承戦争の最中、1742年にフランス軍がプラハを占領。その時に軍隊が敵に知られずに移動することの出来る地下通路(kasematy)が、要塞であるヴィシェフラトに建設された。この地下通路の奥には広い空間があり、ガイドツアーを利用すると、1キロ弱のこの地下通路から奥の空間まで歩いて見学することができる。

 ガイドの後について入口を入ると、高さ2メートル、幅1.5メートルのレンガの通路が続く。圧巻なのは、通路をずっと歩いた一番奥にある空間。ここは、ゴルリツェ・ホールと名づけられている。急に視界が開け、地下にこんな広い空間があるのかというほどの場所である。

 軍隊の集合場所として、また武器や食糧の保管庫として使用された高さ13メートル、広さ330平方メートルのホールには、現在、カレル橋にある彫像のオリジナルの一部が保管されている。ちょっと変わったプラハ観光、市内散策の1つとしてヴィシェフラトの地下通路を訪れてみるのも良いだろう。(2008年11月)

 
Vyšehradu
開館時間 11〜3月  9:30〜17:00
4〜10月  9:30〜18:00
休館日  なし
入場料 地下通路ツアー  Kc 30
ギャラリー  Kc 10
URL  www.praha-vysehrad.cz
問い合わせ先  Tel:+420-241-410348 / 410247
 E-mail:info@praha-vysehrad.cz
 

 

 
チェコとオリンピック


 クーベルタン男爵の提唱で始まった近代オリンピック。1894年に開催された国際オリンピック委員会設立会議で任命された委員会メンバー12人には、このクーベルタンと親交のあったチェコ人が一人いた。イジー・グートという体育教師で、チェコは彼を中心にオリンピックに大いに関わっていった。

 当初1900年のパリ・オリンピックに向けた特別委員会として1899年に発足したチェコ・オリンピック委員会だったが、今日まで続く委員会となった。この頃のオリンピックは必ずしも「国」ごとではなく、「地域」や「個人」でも参加ができ、チェコは1つの「地域」としてオリンピック委員会が認められ、万国博覧会の付属として行われた第2回のパリ・オリンピックから選手を送っている。

 しかし、1914年の国際オリンピック会議で「国」ごとの参加方式が決まり、チェコはオーストリア内に入ることになる。第一次大戦でオリンピック開催中断後、チェコスロヴァキア共和国として独立し、それに伴い委員会もチェコスロヴァキア・オリンピック委員会と改めオリンピックに参加。1993年以降は、チェコ・オリンピック委員会となった。1999年にチェコ・オリンピック委員会は、当時のサマランチ国際オリンピック委員会の会長を迎え、プラハのカロリヌムで100周年を祝った。

 チェコ人が最初に表彰されたのは、第2回のパリ大会の男子円盤投げで2位だった。1924年のパリ大会でベドジフ・シュプチークが体操競技の綱登りで初の金メダルを獲得。日本人になじみのある選手は、エミール・ザートペク(陸上) 、ヴィェラ・チャースラフスカー(体操)、ヤン・ジェレズニー(槍投げ)だろうか。

 チャースラフスカーは2大会で計7つの金メダルを獲得し、ザートペクは2大会の5000メートル、1万メートル、マラソンで計4つのメダルを獲得した。ザートペクの妻のダナも女子槍投げで優勝している。今大会でも女子槍投げは優勝しており、また男子槍投げのオリンピックレコードは今大会で破られるまで、ジェレズニーが持っていた(世界記録はジェレズニーが保持)。彼はまた、ソウル、バルセロナ、アトランタのオリンピック3連覇を成し遂げている。 (2008年9月)

 

 

 
プラハの公共交通 5


 プラハに地下鉄が登場したのは1974年のこと。C線のフロレンツ駅(旧ソコロフスカー駅)〜カチェロフ駅間が開通した。1978年にはA線のデイヴィツカー駅(旧レニノヴァ駅)からナームニェスチー・ミール駅間、1985年にはB線のフロレンツからスミーホフスケー・ナードラジー間が開通し、それから徐々に3線とも延伸していった。

 市内交通を地下化しようという考えは第2次大戦以前からあり、どちらも路面電車を地下に走らせようというものだった。
この構想が具体化するのが60年代半ばになってからのことで、1966年に路面電車の地下走行用に始まった建設は次の年、当時のソ連から援助が受けられることになり、地下鉄建設へと変更する政治決定が下された。そして、1968年の「プラハの春」事件を経て、ソ連側の意向により車両はチェコのCKD社製からソ連製に変更・導入されるも、現在はシーメンス・アドトランツ・CKDのコンソーシウムが製造する車両に徐々に転換されている。

 既存の地下鉄路線のうち、A線は他2線に比べて短かく、そのせいか1989年以前からA線の終点デイヴィツカー駅から空港まで地下鉄で結ぶという案があるとささやかれていた。一時はプラハ・マサリク駅を再開発し、そこから高速鉄道を通すという考えも浮かんだが、結局地下鉄を通すことで決着した。
プラハ市の発表によると、総延長距離12.8キロ、新設される駅9駅、4つの工区に別けられ、最終的には2018年に空港までつながる見込み。市中心部(ムーステク駅)から空港まで約30分で結ばれる予定で、プラハ本駅と南のリブシ地区を結ぶD線の建設計画もあるという。(2008年8月)

 

 

 
プラハの公共交通 3


 プラハの人々にとって重要で便利な交通手段である「トラム(路面電車)」が登場したのは、19世紀の終わりのことだった。
1891年に開かれた内国博覧会の会期中、博覧会主導者の一人クシジークがレトナーからストロモフカまでの800メートルに路線を敷き、4分半で観客を運んだのがプラハのトラムの始まりだ。その後、路線は少し延長されたが、運行されたのは夏季のみだったという。

 トラムの定期運行が始まったのは1896年3月のこと。クシジークの会社がプラハ・フロレンツーリベニューヴィソチャヌィの路線を開き、6時から22時まで110分間隔の最高時速15キロで運行していた。

 翌年には、フラヴァーチェクが路面電車を運行する会社を発足。プラハ市は独自の公共交通会社を持つことを決め、「プラハ市電気企業」を設立し、オトレの路面馬車会社を買収。プラハージシュコフーヴィノフラディの路線を開通した。これが現在の「プラハ市交通企業」の前身となる。プラハ市内のトラム路線網は、第一次大戦前まで順調に発展し、乗客も増大していった。

 戦後、チェコスロヴァキア共和国が成立された。プラハは首都として近郊の36村を合併し、それに伴いトラム路線も拡大された。1938年には23路線、総路線距離258.5キロ、法定最高時速35キロで運行され、第2次世界大戦中の1942年には夜間運行も開始された。現在は走行されていないが、当時は旧市街広場やその付近、ヴァーツラフ広場もトラムが走っていた。また、1995年には総路線距離450キロを越えている。

 当初トラムには、運転手の他に車掌も乗車していたが、第一次大戦中は男性が戦争に招集されていたことから女性の車掌が登場した。車掌は乗客の間を回って乗車券を販売していたが、1950年代に導入されたT型車両では車掌の場所が設置され、乗客が車掌のところまで行って乗車券を買い求めたという。その後、1974年にこの車掌制度はなくなった。

 車両は、当初はリングホーフェル社、その後同会社の変遷に伴いタトラ・プラハ国営企業やCKDプラハ企業から調達された。お馴染みなのはCKDプラハのT3型だ。現在、トラムは平均時速19キロ(最高時速60キロ)で、日中24路線、夜間9路線、総路線距離559.3キロで運行している。(2008年6月)

 

 

 
プラハの公共交通 2


 現在の公共交通網の始まりとされるのは1875年の路線馬車。公共交通網の構築は、プラハが近代都市へと発展していく契機であった。

 19世後半になり、乗合馬車では発展する社会に対応しきれないと考えられ、路面馬車の運行計画が浮上した。1873年に政府から許可を取り、カルリーンとスミーホフを結ぶ路線の敷設を計画したが、オーストリアを襲った金融不況のため資金難に陥り、計画はベルギーの企業主エドアール・オトレの手に委ねられる。

 すでに南フランスのマルセイユで路面馬車の運行に関わった経験がある彼は、1875年9月23日午後、最初の路線馬車が現在の国民博物館からカルリーンに向かって出発した。この日がプラハ公共交通網の始まりとされる。

 操業当初は1路線の3〜4キロ、その後1885年までに6路線の約19キロに延長され、時速8キロで朝6時から夜10時まで運行された。6路線は色で区別され、切符にもそれぞれの路線の色が使用された(乗換可)。当初、技術上の理由からヴルタヴァ川を渡る路線はなかったが、1878年パラツキー橋完成後はその問題も解消した。

 路線馬車の運行はプラハっ子の人気を集め、乗合馬車は廃れていく。1891年の内国博覧会、1895年の民俗博覧会の開催時期には、多くの人々がストロモフカにある会場に向かうために、路線馬車を利用した。だが、この路線馬車も19世紀末に路面電車が導入されると、その地位を明け渡すことになる。

 最後に残った路線は、クシジョブニツケー広場からカレル橋を渡り、マラー・ストラナ広場に至る路線。これは技術上の理由から、カレル橋に路面電車を通すことができなかったからだという。そして、1905年5月12日に路線馬車の運行は終了した。 (2008年5月)

 

 

 
プラハの公共交通


 2008年は、プラハ市内の公共交通機関としてバスの運行が開始されてから100周年を迎える。

 現在の公共交通網の始まりとされるのは1875年の路線馬車だが、それ以前からすでに公共交通の乗り物として乗合馬車があった。
2頭立ての馬車が決められた路線を走り(路線馬車と違って線路上は走らない)、馬車には後方から乗り込み、中は中央に通路があって6列で座席が置かれていた。2階建ての馬車もあり、上の階は開放型だったという。

 1829年10月、ヤクプ・ホツェンスキーが領邦官庁とプラハ市から乗合馬車運行の許可をもらい、旧市街広場からカレル橋を渡ったマラー・ストラナまで30分間隔で走らせていたのがそれだ(運行開始時期は、すぐに始まった説と次の年説がある)。ただ、これは次の年には行われなくなり、その後乗合馬車の運行はいくつかの路線を走ったり、またやめたりを繰り返した。

 1845年に現在のマサリク駅が完成し鉄道が開通すると、それに合わせて乗合馬車も駅とホテルの間を、鉄道の出発や到着に合わせて運行されるようになった。その後1862年にプラハ・スミーホフ駅ができ、カルリーンからマラー・ストラナを通ってスミーホフへ行く路線は多くの人々が利用した。

 しかし、1875年の路線馬車の運行開始が、乗合馬車の転換期となる。路線馬車との競争の結果、徐々にその路線を減らさざるを得なくなった。それでも、1891年の内国博覧会の時には路線馬車が十分になかったこともあり、多くの客を会場に運んだという。この乗合馬車の運行は、1904年に終了している。

 乗合馬車の記録は資料が少ないこともあり、あまり語られることはないという。この後、プラハの公共交通機関として路線馬車(1875年)が登場し、路面電車(1891年)、バス(1908年)、地下鉄(1974年)と発達していくことになった。
 

 

 
コラム「プラハ城」


 プラハ城は、発掘調査や文献からプシェミスル家のボジヴォイが880年頃に建てたと見られている。

 ボジヴォイはプシェミスル家初代といわれ、その孫が聖ヴァーツラフ。10世紀頃からプラハ城はチェコの統治者の居城となり、11世紀頃に城の教会として聖ヴィートのバジリカが建てられた。これが、現在の聖ヴィート大聖堂となる。

 ルクセンブルク家のカレルが神聖ローマ皇帝となったとき、プラハ城は皇帝の公私の中心地として、現在の旧王宮部分などが整備された。また、次のヤゲウゥ家統治の時代には北側の塔が建設され、建築家ベネディクト・リートが王宮を増改築、ヴラジスラフ・ホールなどが造られている。

 その後、ハプスブルク家が統治するようになり、ルネサンス様式の建物が完成。16世紀には王の庭園やそれを取りまくヴェルヴェデーレ等の建物が整備され、ルドルフ2世の時代にプラハ城は第2の最盛期を迎えた。
ルドルフ2世は自分の宮廷をプラハに移し、収集した芸術品や学術資料を納めるための場所を王宮の北側に造った。これが現在のスパニッシュ・ホールに当たる。

 後に三十年戦争等でプラハ城は損傷を受け、その時期を境に城はあまり使われなくなったが、18世紀後半に大きな改築が行われ、1848年にオーストリア皇帝を退位したハプスブルク家のフェルディナント5世が退位後プラハ城に移り住んだ。

 1918年、チェコ・スロヴァキア共和国が独立してプラハ城は大統領府となり、1920年にスロヴェニア人建築家プレチニクにより改修工事が行われた。1989年以降、城内は順々に改修工事が行われている。 (2008年2月)

 
Pražský Hrad
住所  119 08 Praha 1
URL  www.hrad.cz
問い合わせ先  Tel:+420-224-371111 / 234-301111 / 726-211111
 

 

 
チェコ共和国がシェンゲン協定入り


 2007年12月20日から、チェコ共和国はシェンゲンゾーンに入り、陸路の国境でのパスポートチェックは廃止された。
2008年3月30日には空路も廃止される予定で、同日以降シェンゲンゾーンからの発着便については、パスポートチェックがなくなる。なお、このシェンゲンゾーンには、同時期にエストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、ハンガリー、マルタ、スロバキア、スロベニアが加っている。(2008年1月)

 

 

 
公共料金値上げ


 プラハ市内の公共交通料金が、2008年1月より値上げされた。市内地下鉄、トラム、バスは共通チケットで利用可能だが、この料金も値上げとなっている。(2008年1月)

 

 

 
郵便料金値上げ


 2008年1月より郵便料金が改定され、20グラムまでの郵便物はEU諸国宛が17コルナに、日本宛は18コルナに、50グラムまでのものはそれぞれ21コルナ、24コルナに値上げされた。詳細は、ウェブサイトを参照。(2008年1月)

 
Česká pošta
URL  www.cpost.cz
 

 

 
プラハの現代建築「ダンシングビル」


 プラハの新市街、ヴルタヴァ川河畔にある「ダンシング・ビル」は、そのユニークな外観から道行く人々の関心を引いている。

 「ダンシング・ビル」は、ザグレブ生まれのヴラド・ミルニチと、トロント生まれのフランク・ゲーリーによって進められ1994年から1996年にかけて建設された。中心となる建物は地上8階・地下2階で、屋上にはメデューサの頭に見立てたキューポラがついている。

 このビルは、塔の形の建物にガラスの塔が寄り添って踊っているように見える外観から、ハリウッドのミュージカルスターコンビの名をとり「ジンジャーとフレッド」と名づけられたが、一般的にはそれよりも分かりやすいチェコ語の「Tančící dům」(英語で「ダンシング・ビル(踊る家)」)という名称で親しまれている。なお、同ビルには、現在オランダの保険会社「ナショナーレ・ネーデルランデン」が入っている。(2008年1月)

 
Tančící dům
住所  Nové Město, Praha 2
URL  www.pis.cz/cz/praha/pamatky/tancici_dum
 

 

 
ヨーロッパ大陸初の馬車鉄道


 ヨーロッパ大陸で最初に馬車鉄道が走ったのは、南ボヘミア州の州都チェスケー・ブジェヨヴィツェとオーストリアのリンツの間。ドナウ川とヴルタヴァ川を結ぶ運河の構想は中世のカレル4世の頃からあり、産業革命の時代になって運河ではなく、リンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェを結ぶ馬車鉄道という形で実現した。

 工事は1825年に始まり、全線が開通して定期運行がスタートしたのは1832年のこと。全行程14時間の長旅で、朝5時にリンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェの双方から馬車が発車し、正午にオーストリア側のケルシュバウムで2台が交差、駅のレストラン(ヨーロッパで最初だそう)で昼食を取ってから出発していた。この路線で蒸気機関車が運行されたのは1872年9月1日のことだった。

 現在、馬車鉄道に関して残っているものはあまりないが、実際の線路跡がチェスケー・ブジェヨヴィツェから南に列車で30分ほどの小村に残されている。また、チェスケー・ブジェヨヴィツェ市内には「馬車鉄道博物館」がある。但し、2007年8月現在、同博物館は改修工事のため閉館している。 (2007年10月)

Koněspřežni železnice
住所  Mánesova 10, 37051 České Budějovice
URL  www.bujanov.cz
問い合わせ先  Tel:+420-386-354820 E-mail:muzeumcb@muzeumcb.cz
 

 

◇ 掲載の内容は予告なしに変更されることがありますのでご注意下さい ◇
情報提供:Czech Tourism チェコセンター観光部
最終更新日:2011年6月14日
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