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チェコ最新情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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この夏、チェコ各地で予定されている注目のイベントは以下の通り。(2011年6月) ◆ ストラズニツェ・フォークロア・フェスティバル 伝統あるチェコ最大規模のフォークロア・フェスティバル。この地方に伝わる歌や舞踏、カラフルな民族衣装の数々に彩られる華やかな祭典だ。
◆ スメタナ・リトミシュル音楽祭 今年で53回目を迎える音楽祭。「プラハの春」の次に伝統を誇る。メインステージには世界遺産のリトミシュル城の中庭が使われ、野外音楽祭としては国内最大規模の音楽祭だ。オープニングはベートーベンの『第九』、チェコフィルの『売られた花嫁』など、オペラ、声楽がフューチャーされたプログラムとなっている。
◆ カルロヴィヴァリ国際映画祭 中欧で最も権威あるAランクの国際映画祭。毎年多くのスターたちが来場し、1万人にも及ぶ観客を動員している。国際コンペ参加作品は、映画祭の2週間前にウェブサイトで発表される。
その他のイベントは、http://Kudyznudy.cz を参照。 |
プラハでは地下鉄、トラム、バスが共通のチケットで乗り継ぐことが出来る。 その料金が7月1日より改定されることとなった。チケットは日本と異なり、乗車時に改札機で時刻を打刻しないと有効にならない。チケットに乗車時刻の印字がないと有効乗車券と認められないので注意が必要だ。なお、6歳以下は無料となっている。(2011年6月)
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2006年から改修のために閉館されていた「国立技術博物館」が、改修を終え2月16日にリニューアルオープンした。 展示は部門別に行われていて、輸送のホールでは自動車や航空機、オートバイなどのヒストリカル・カー、建築部門ではチェコ建築のデザインの粋が、また印刷技術、写真、天文学などについての展示もあり、かつて世界第7位の工業力と優れたデザインを誇ったチェコの新たな側面が観られる。(2011年3月)
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去る2011年1月11日、チェスキー・クルムロフにこの地を代々支配してきたロジュンベルク家、エゲンベルク家、シュヴァルツェンベルク家ゆかりの品々を集めた新たな博物館がオープンした。 ヨーロッパ経済領域とノルウェーからの支援を受け、4千万チェココルナを投じて開館に至った同博物館があるのはチェスキー・クルムロフ城。博物館となった建物は第二のコートヤードに位置した部分で、城の中でも一番古く、また価値ある部分が公開されている。 また、新たな照明設備が整備される一方、昔ながらの明かりを再現しての展示も試みられており、城主のパヴェル・スラフコ氏も「19世紀のこの城の黄金時代をそのままご覧いただける展示」と胸を張る。なお、同博物館はガイドなしで見学が可能。オーディオガイドのサービスも行っている。(2011年2月)
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プラハ城の門の前で表情も変えず、また微動だにせず城を守っているのが衛兵。衛兵交代の儀式は見ていると、荘厳な気持ちになる。 ファンファーレ付きの大がかりな交代式は正午に行われが、人ごみを避けて見物するのであれば正午を除く毎正時に行われる交代式が良いだろう。衛兵勤務約450人のうち4人とわずかだが、プラハ城の衛兵には女性もいる。運がよければ、そうした女性衛兵の姿を見ることができるかも知れない。 チェコでは2004年に徴兵制度が廃止され、軍隊は職業軍人のみとなった。これに伴いプラハ城の衛兵には男女にかかわらず志願できるようになった。 とはいうものの志願条件に男女の区別は無い。身体条件は身長が178センチから188センチ、体重は身長に対応(過度のオーバーは不可)していること。そして、心身ともに良好であること。体力テストや精神チェックも行われる。 学歴は高卒以上で、士官は大卒であることが最低条件。刺青、ピアス、イヤリング、髭は認められておらず、髪形もきちんと整え、もみあげは耳の半分の長さまでという規定もある。もちろん、女性もきちんと整えた短髪が条件と個別に規定されている。そう考えると女子のハードルは、かなり厳しいものであることがわかる。 制服も男女の区別はなく、現在のデザインは、1990年に芸術家のテオドル・ピシュチェクによるもの。夏物はともかくとして、冬服はかなり重そうだ。 最初に採用された女性は2名。うち1名は入隊前にはラハ市警察に勤めていた女性で、現在も勤務を続けているという。以来、現在に至るまで合計で7名の女性が入隊している。 衛兵の仕事はもちろん、門番として立っているだけでなく、プラハ城のセキュリティー全般を担っている。バイク隊もあり、犬を伴う警護活動や城内および庭園のチェックもあるそうだ。 5月8日と10月28日の年に2回には、通常は公開されていない官庁スペースの見学が許されているのだが、その際も大勢の見学者で賑わう城内の警備をし、案内等のサービス業務を行っている。 (2011年2月)
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丘の上にそびえるプラハ城にある聖ヴィート大聖堂の南側の塔の公開が再開された。 60メートルの高さまでは287段。丘のさらに上から見える景色を確かめに、上ってみてはいかがだろうか。 (2010年10月)
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リラックスしたい、癒やされたい・・・という方にこの秋お勧めしたいのがチェコのスパ旅行だ。 チェコは、国内各地に鉱泉のでる「温泉大国」。スパタウンには古くから多くのヨーロッパのセレブが集まるリゾートとして知られ、王侯貴族はもとよりゲーテ、ショパン、ベートーベンなど訪れた有名人は数知れない。ゲーテの「イタリア紀行」もカルロヴィ・ヴァリから始まったと伝えられている。 中でも有名なのがカルロヴィ・ヴァリ、マリアーンスケー・ラーズニェ、フランチシュコヴィ・ラーズニェを擁する西ボヘミアの一帯で、毎年国内外から多くの人々が訪れている。世界で初めてラドン鉱泉をとりいれたヤーヒモフ温泉もこの地域にある。バロック建築に囲まれた優雅なスパタウンにご注目を!(2010年10月) ◆ カルロヴィ・ヴァリ 14世紀に神聖ローマ帝国皇帝、カレル4世によって開かれた世界的にも有名なスパタウン。 飲泉が中心の湯治場で、ここでは毎年カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭が開催されている。また、チェコグラスの一流ブランドであるモーゼルグラス社の本拠地となっている他、薬草リキュールやベヘロフカでも有名だ。
◆ マリア−ンスケー・ラーズニェ ネオバロック様式を中心とする美しい建築のコロナーダが、19世紀そのままに残されている。 100以上もの源泉がある他、キンジュヴァルト城 オーストリアの宰相メッテルニッヒが住んでいたことで知られ、 毎年多くの見物客が訪れている。
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ブルノにある「トゥーゲンダート邸」は、改修のため一時的に一般への公開を中止している。 工事の期間は2年程度になるものとみられているが、この間の見学は不可能なのでブルノ観光を予定している人は注意が必要だ。 (2010年2月)
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国立博物館本館と道を隔てた隣、国立オペラ劇場との間にある。上階部分が下にかぶさっているのが特徴的な建物で、かつてはここにチェコスロヴァキア時代の連邦議会が置かれていた。建物は新たに国立博物館となるため2011年末から改修工事が行われるが、それまで内部の見学が可能になった。 この付近は、カレル4世時代に築かれた壁が19世紀に入り取り壊された後に木製の劇場が建てられたが、1920年代にプラハ証券取引所(1861年開設)がこの地所を購入し、取引所が建設された。現在も残されている建物の基本部分は、この時代の証券取引所の建物を改修したものだ。 キュビズム建築で有名なヤン・コチェラの弟子、ヤロスラフ・レスレル設計のモダン・クラシック様式の建物は、1938年にオープニンしたがドイツの占領で証券取引所の活動が停止され、それ以降は軍の倉庫やドイツ劇場(現国立オペラ劇場)の倉庫、そして病院へと次々に変わっていった。1946年からは議会が置かれた。 議会があった当時は、レトナーの丘に新しい議事堂を建てる計画があり、一時的な場所としてこの場所が選ばれたが、1960年代には移転計画そのものが白紙となり、本格的な議事堂としての整備が始められた。 その際、ヴァーツラフ広場方向に建っていた隣の2棟の建物が取り壊わされ、従来のビルに隣接して新たなビルが建てられた。それと同時に、両方の建物の上を覆うような形で4本の柱で支えられた2つの階が設けられた。 このような工法はベルギー人の考案者の名前からフィーレンディールトラスと呼ばれ、橋の建設に用いられるが、ここではビル建設に使用されている。 改修後は1973年から1992年まで連邦議会がここで開かれ、その後(1995年〜2009年)はラジオフリー・ヨーロッパがこの建物に入っていたという。これを後押ししたのは、当時のハヴェル大統領だった。この場所で、実に様々な歴史的な出来事が繰り広げられていた事がわかる。 最上階にある委員会室からはプラハ城が一望。1階にあるカフェは以前もレストランで、議員たちの憩いの場になっていたそうだ。 この建物は、将来的に隣の本館と地下通路で結ばれる予定で、現在はその愛称を募集している。改修は2016年に終了する予定で、展示室の以外にも会議室やマルチメディア室を備えた総合学術施設となる予定だ。 (2009年10月)
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チェコの温泉保養地といえば、19世紀にはすでにハンガリー・オーストリア帝国内最高の保養地だった「カルロヴィ・ヴァリ」。 カルロヴィ・ヴァリと言えば、ガラスのモーゼル、ミネラルウォーターのマットーニ、13番目の源泉といわれるベヘロフカなどが有名だが、中でも伝統と格式を誇り、カルロヴィ・ヴァリの象徴とも言えるのが、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭の主会場にもなっている「グランドホテル・プップ」だろう。 19世紀にホテル起業したプップ家といえば、1760年にヴェルトルスィからカルロヴィ・ヴァリに出てきたヤン・イジー・ポプ(ヨハン・ゲオルク・プップ)にまで遡る。妻であるフランチシュカが、「チェコホール」と呼ばれていた建物を購入し大々的な改修を行い、やがて当時のカルロヴィ・ヴァリの社交サロンの中心へと発展。それが、現在のホテルの礎となった。 その後、一時的にチェコホールはプップ家の手を離れることになるが、徐々に買い戻しが行われた。プップ家は、周辺の土地家屋も入手しながら事業を拡大していった。その間、カルロヴィ・ヴァリ天然水の輸出で名を上げていたマットーニ家と婚姻により親戚関係となった。 19世紀後半には一族経営のGHプップ会社が設立され、1890年に株式会社化された。その後、カフェ、レストラン、ビリヤードルームを備え、周辺の家屋やホテルを買収したが、1892年から1993年にかけチェコホールも含めて解体。ウィーンの建築家の設計の下、グランドホテル・プップを建築し、オープンに至った。 プップ家は、ホテル経営に力を注ぐだけではなく、カルロヴィ・ヴァリ社会に多大な寄付を行い、特にアントン・プップ(1841〜1907)は町の名士として知られている。その後ホテルは1910年、1922年から23年にかけて改修され、1925年にはコンサートホールが増築された。このホールには、モラヴィアのクルノフにあるリーゲルークロス社のオルガンが導入されている。 1951年にはホテルの名称が「グランドホテル・モスクワ」に変更されたが、1989年に元の名前に戻された。 現在「グランドホテル・プップ」には各国の貴賓が宿泊し、国際会議の会場としても利用されている。またり、映画のロケ地としても人気が高い。 (2009年7月)
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西ボヘミアの三大温泉保養地は以前から有名だが、古くはオーストリア・ハンガリー帝国の時代にも人気の観光地だった。 20世紀初頭の統計によると、ハンガリーを除く帝国内の保養地で客数の多い上位10都市の中に、カルロヴィ・ヴァ(1位)、マリアーンスケー・ラーズニ(3位)、フランチスコヴィ・ラーズニェ(8位)がランクイン、宿泊者数のうち1週間以上滞在する人の占める割合が95%以上というデータが残っている。最近の統計でもカルロヴィ・ヴァリ県への外国人観光客の平均滞在日数は6.7〜7日。他県の平均が3日前後であることを考えると、長いといえる。 今回紹介するのは、マリアーンスチェコでは比較的新しい温泉保養地ケー・ラーズニェ(独語名:マリエンバート)だ。 源泉は7〜10℃の弱酸性の冷泉。町のある地域はテプラーにあるプレモントル修道会に属しており、12世紀にはその地域の水が病気治療に効くことが修道士たちに知られていたが、森深い地であったことから世間に知られないまま時が流れた。18世紀後半になってようやく、この地の鉱泉が病気治療に効果的であることが知れ渡り、活用しようという機運が起こった。 1805年に最初の湯治客を迎え、それ以降スパハウス・パヴィリオン、コロナーダ等が建てられ町は発展した。1872年にはプルゼニ経由でプラハやウィーンと鉄道で結ばれ、1898年にはカルロヴィ・ヴァリ間の路線も開通した。 温泉保養地では治療だけではなく、社交、スポーツ、文化活動などが盛んに行われているが、中でもマリアーンスケー・ラーズニェのゴルフ場は別格だ。この地をいたく気に入った英国のエドワード7世の肝いりにより1905年にオープンした、チェコで最も古い格式のあるゴルフ場だ。コースは全18ホール。当時のスコットランド様式のクラシックタイプのゴルフ場で、2003年にエリザベス女王から「ロイヤル・ゴルフ・クラブ」のタイトルを名のることを許された。(2009年4月)
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モラヴィア地方最大の温泉保養地、ルハチョヴィツェ。17世紀後半に最初の源泉が掘られ、ここの水が病気治療に効くということが知られるようになった。やがて18世紀末になると、湯治客のための施設が建つようになり、次第に町は賑わいをみせるようになったが、同時に湯治客から長期の滞在にはあまりにもお粗末だった施設に対する不満も出てきた。 1902年には鉄道がルハチョヴィツェまで延び、その3年後にはプラハ、ブルノ、オロモウツから直接列車でルハチョヴィツェにアクセスできるようになった。そこで、当時の町の名士たちは近代的な設備を持つ温泉療法施設を設置し、町を文化・社交生活を営める温泉保養地にすることを決意した。そのために招聘された建築家が、スロヴァキア人のドゥシャン・ユルコヴィチ(1868〜1947)だった。 現在のチェコとスロヴァキアの国境近くの村で生まれたユルコヴィチは、ウィーンの工業専門学校で建築を学び、卒業後実務に入る。1895年にプラハで開かれた民俗博覧会では、チェコ人建築家のミハル・ウルバーネクのアシスタントを勤めた。 イギリスのアーツ&クラフト運動の影響を受けた彼のスタイルは、モラヴィア地方の民俗芸術の様式をセセッション様式に取り入れた個性的なものと言われている。 現在、ルハチョヴィツェにはこのユルコヴィチ以外にも、ユルコヴィチ設計の建物を改築したモダニズム的味わいを持つインハラトリウム(治療施設)などがあり、これらの建物を含む町全体をユネスコの世界遺産に登録申請を行っている。 ルハチョヴィツェの源泉は、10〜12℃で多くのミネラル物質を含み炭酸ガスが溶け込んだ良質な鉱泉だ。ここをこよなく愛した有名人も多く、その中の一人に作曲家のレオシュ・ヤナーチェクがいる。ヤナーチェクはこの地を20回以上訪れここでの社交生活を楽しみ、作曲に勤しんだという。また、スメタナの2番目の妻、ベティはルハチョヴィツェに埋葬されている。(2009年4月)
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チェコには多数の温泉保養地がある。日本と違って飲泉が主となるが、どこかのんびりとした雰囲気は日本とそう変わりはないだろう。今回紹介するのは、そんな温泉地の中から化学の進歩に貢献した町、ヤーヒモフだ。 西ボヘミア地方にあるヤーヒモフは、16世紀初頭に銀が発見された後、1516年に町が造られた。ヤーヒモフという名前は、その翌年に聖ヨアヒムに因んで付けられた。 町は銀の採掘で急速に発展し、チェコ、ドイツの各地から鉱夫が集まった。1533年町の人口は1万8千人。 当時としてはプラハに次ぐ人口で、それまで銀生産の中心地であったクトナー・ホラは、その地位をヤーヒモフに譲り渡す格好となった。 さらに銀貨の鋳造も行われ、これは「タール」「ヨアヒムスタール」「トラル」などと呼ばれ、後に通貨「ドル」の語源になることはよく知られている。 しかし、16世紀後半には早くも銀採掘量が減り始め町の繁栄にも陰りが見えてきたが、それを決定付けたのが三十年戦争だった。 ヤーヒモフの町には次々と軍隊が駐留し、その後も採掘は細々と続けられるも、1671年には貨幣鋳造所が閉鎖、1871年に採掘は完全に停止した。 そんな町に再び発展の兆しが現れたのは1840年代のこと。この頃、銀のほかに採掘されていた黒塊(ピッチブレンド=ウランを含む鉱石)からウランが抽出できるようになった。 西ボヘミア地方ではガラスや磁器生産が盛んで、ウランは製品を黄色や金色に彩色するために威力を発揮した。ウランの採掘は経済的にも上昇するきっかけとなり、19世紀から20世紀の転換期に町は第2の発展期を迎えた。 この頃、ヤーヒモフにかかわるのが、女性で初のノーベル賞を受賞した化学者のマリー・キュリーだ。彼女は夫と共にヤーヒモフでウランを抽出した後に廃棄されたピッチブレンドから、ラジウムとポロニウムを発見した。 同時にウラン鉱からのラジウム水が病気治療にとても効用があることが発見され、1906年に湯治施設が設置された。 ヤーヒモフのウラン鉱山は1960年代までに採り尽くされて廃鉱になったが、現在29〜36℃の4つの源泉から温泉が引かれてた。ヤーヒモフの名はラジウム温泉と共に広まり、現在も世界各地から多くの湯治客を迎えている。 (2009年3月)
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2009年にノルディックスキー選手権が開催されるリベレツの町。ジャンプ競技の会場は、標高1012メートルのイェシュチェト山の麓にある。 19世紀にはリベレツ市民に人気の遠足スポットとなっていたイェシュチェト山には、観光客を対象に食事を提供する山小屋や、展望台が建てられ営業していた。また、1907年にはリベレツの建築家により23メートルの塔を持つ石造りの本格的なホテルが建てられたが1963年の火事で消失し、それに代わる新しい建物が建築家カレル・フバーチェクの設計により建てられた。 それが現在、観光局のパンフレットにもなっている93メートルのテレビ塔がある円錐形の「ホテル・イェシュチェト」だ。 「ホテル・イェシュチェト」は、1階は一般に開放されており、上階がレストランと宿泊専用フロアになっている。 設計者のフバーチェクは、1969年にこの建築で国際建築家協会のオーギュスト・ペレ賞を受賞しており、政府は建物をユネスコ世界遺産リストに登録申請を行っている。 イェシュチェト山周辺にはスキー場やハイキングコースも整備されているので、冬はスキーやスノーボードを、夏はハイキングを楽しむ人々でにぎわう。山頂からの眺望も格別で、天気の良い日には144キロ遠方にあるヴィソチナ地方の山やプラハのテレビ塔、ドイツ国境の街ゲルリツなどが見られるという。また、四季折々で異なった眺望が楽しめ、日本の祝日にもなっている春分の日と秋分の日には、チェコ最高峰のスニェシュカ山の背後から、黄金色に輝きながら浮かび上がる朝日が期待できる。 イェシュチェト山へは、リベレツの中心から山の麓までトラム(約20分)を利用。そこから、1933年に開通したチェコで2番目に古いとされるロープウェイに乗換えれば、4分程で山頂に到着する。 (2009年1月)
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チェコでも屈指の美しさを誇るフルボカ城が、冬の観光客受け入れを開始し、城内にある9の部屋が見学できるようになった。 17世紀そのままの木目の美しい城内には、陶器、銀器、絵画、暖炉、テキスタイルなどの調度品が展示されている。また、見学コースにには、20世紀初頭に当時の持ち主により設置された水洗トイレも含まれている。(2008年12月)
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チェコ生まれの作曲家、グスタフ・マーラーは、1860年ホンポレッツ近くのカリシュチェという村で生まれ、生後2ヶ月の時に一家はイフラヴァに移った。現在、イフラヴァにあるマーラーが子供の頃を過ごした家が修復され、一般に公開されている。(2008年12月)
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クリスマスから新年にかけての教会は、他の時期とは違った趣がある。そんな教会の一つが「勝利の聖母マリア教会」。ルター派の教会だった「勝利の聖母マリア教会」は、ビーラー・ホラの戦い後にカルメル会の手に渡り、カトリック教会に改修された。現在も巡礼者の絶えない教会だが、その大きな理由は教会に安置されている「プラハの幼子イエス」の人形にある。 この人形は、幼子イエス崇拝が広まっていたスペインの貴族の娘が母から譲れたもので、チェコ貴族の元に嫁いだ際に嫁入り道具の一つとしてチェコに持ち込んだ。その後、さらにその人形を譲り受けた娘が、17世紀中頃教会に寄進した。その小さな人形が様々な奇跡を起こし、その評判がヨーロッパ中に広まって信仰の対象となったという。 人形は非常にもろいため当初から服が着せられていたが、信仰の対象として評判になるにつれ豪華な服が多数寄進されるようになった。現在は、1655年にプラハ司教が寄進した宝石のちりばめられた王冠をかぶり、寄進された衣装を定期的に着せ替えられ安置されている。その中には、毎年クリスマスと新年に着せられるマリア・テレジアが送ったものや、上海、フィリピン、ベトナムから送られた独特な衣装もある。 この時期、教会は特別礼拝などのため見学が制限される場合が多くなるので注意が必要だ。また、この時期だけキリストの誕生シーンを模した伝統的なベトレムが特別展示されている。場所は、カレル橋からカルメリツカー通りをペトシーンの丘へのケーブルカー乗り場向かう途中、旧市庁舎から徒歩で約45分のマラー・ストラナ地区にある。(2008年12月)
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プラハ城の周りの庭園をはじめ、散策する場所に事欠かないプラハ。だが、ヴィシェフラトは格別の場所と言えるだろう。高台の公園からはプラハ城とヴルタヴァ川、プラハ市内が一望でき、町の喧騒とは無縁ののんびりとした空気が周囲を包み込んでいる。また、ここでは地下通路めぐりも体験できる。 17世紀半ば、皇帝フェルディナント3世の命令で、ヴィシェフラトはプラハ市を守る要塞としての機能を持つように改築され、現在の姿になった。その後、オーストリア継承戦争の最中、1742年にフランス軍がプラハを占領。その時に軍隊が敵に知られずに移動することの出来る地下通路(kasematy)が、要塞であるヴィシェフラトに建設された。この地下通路の奥には広い空間があり、ガイドツアーを利用すると、1キロ弱のこの地下通路から奥の空間まで歩いて見学することができる。 ガイドの後について入口を入ると、高さ2メートル、幅1.5メートルのレンガの通路が続く。圧巻なのは、通路をずっと歩いた一番奥にある空間。ここは、ゴルリツェ・ホールと名づけられている。急に視界が開け、地下にこんな広い空間があるのかというほどの場所である。 軍隊の集合場所として、また武器や食糧の保管庫として使用された高さ13メートル、広さ330平方メートルのホールには、現在、カレル橋にある彫像のオリジナルの一部が保管されている。ちょっと変わったプラハ観光、市内散策の1つとしてヴィシェフラトの地下通路を訪れてみるのも良いだろう。(2008年11月)
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プラハ城は、発掘調査や文献からプシェミスル家のボジヴォイが880年頃に建てたと見られている。 ボジヴォイはプシェミスル家初代といわれ、その孫が聖ヴァーツラフ。10世紀頃からプラハ城はチェコの統治者の居城となり、11世紀頃に城の教会として聖ヴィートのバジリカが建てられた。これが、現在の聖ヴィート大聖堂となる。 ルクセンブルク家のカレルが神聖ローマ皇帝となったとき、プラハ城は皇帝の公私の中心地として、現在の旧王宮部分などが整備された。また、次のヤゲウゥ家統治の時代には北側の塔が建設され、建築家ベネディクト・リートが王宮を増改築、ヴラジスラフ・ホールなどが造られている。 その後、ハプスブルク家が統治するようになり、ルネサンス様式の建物が完成。16世紀には王の庭園やそれを取りまくヴェルヴェデーレ等の建物が整備され、ルドルフ2世の時代にプラハ城は第2の最盛期を迎えた。 ルドルフ2世は自分の宮廷をプラハに移し、収集した芸術品や学術資料を納めるための場所を王宮の北側に造った。これが現在のスパニッシュ・ホールに当たる。 後に三十年戦争等でプラハ城は損傷を受け、その時期を境に城はあまり使われなくなったが、18世紀後半に大きな改築が行われ、1848年にオーストリア皇帝を退位したハプスブルク家のフェルディナント5世が退位後プラハ城に移り住んだ。 1918年、チェコ・スロヴァキア共和国が独立してプラハ城は大統領府となり、1920年にスロヴェニア人建築家プレチニクにより改修工事が行われた。1989年以降、城内は順々に改修工事が行われている。 (2008年2月)
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プラハ市内の公共交通料金が、2008年1月より値上げされた。市内地下鉄、トラム、バスは共通チケットで利用可能だが、この料金も値上げとなっている。(2008年1月) |
2008年1月より郵便料金が改定され、20グラムまでの郵便物はEU諸国宛が17コルナに、日本宛は18コルナに、50グラムまでのものはそれぞれ21コルナ、24コルナに値上げされた。詳細は、ウェブサイトを参照。(2008年1月)
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プラハの新市街、ヴルタヴァ川河畔にある「ダンシング・ビル」は、そのユニークな外観から道行く人々の関心を引いている。 「ダンシング・ビル」は、ザグレブ生まれのヴラド・ミルニチと、トロント生まれのフランク・ゲーリーによって進められ1994年から1996年にかけて建設された。中心となる建物は地上8階・地下2階で、屋上にはメデューサの頭に見立てたキューポラがついている。 このビルは、塔の形の建物にガラスの塔が寄り添って踊っているように見える外観から、ハリウッドのミュージカルスターコンビの名をとり「ジンジャーとフレッド」と名づけられたが、一般的にはそれよりも分かりやすいチェコ語の「Tančící dům」(英語で「ダンシング・ビル(踊る家)」)という名称で親しまれている。なお、同ビルには、現在オランダの保険会社「ナショナーレ・ネーデルランデン」が入っている。(2008年1月)
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ヨーロッパ大陸で最初に馬車鉄道が走ったのは、南ボヘミア州の州都チェスケー・ブジェヨヴィツェとオーストリアのリンツの間。ドナウ川とヴルタヴァ川を結ぶ運河の構想は中世のカレル4世の頃からあり、産業革命の時代になって運河ではなく、リンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェを結ぶ馬車鉄道という形で実現した。 工事は1825年に始まり、全線が開通して定期運行がスタートしたのは1832年のこと。全行程14時間の長旅で、朝5時にリンツとチェスケー・ブジェヨヴィツェの双方から馬車が発車し、正午にオーストリア側のケルシュバウムで2台が交差、駅のレストラン(ヨーロッパで最初だそう)で昼食を取ってから出発していた。この路線で蒸気機関車が運行されたのは1872年9月1日のことだった。 現在、馬車鉄道に関して残っているものはあまりないが、実際の線路跡がチェスケー・ブジェヨヴィツェから南に列車で30分ほどの小村に残されている。また、チェスケー・ブジェヨヴィツェ市内には「馬車鉄道博物館」がある。但し、2007年8月現在、同博物館は改修工事のため閉館している。 (2007年10月)
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◇ 掲載の内容は予告なしに変更されることがありますのでご注意下さい ◇ 情報提供:Czech Tourism チェコセンター観光部 最終更新日:2011年6月14日 |
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