そんな私がハリウッド・ロードでたった一つの買い物をした。別に、何時もひやかしてばかりいて申し訳ないので、たまには買おうと思って無理して買ったのではなく、ある時、どうしても、それを手に入れたくなったから不思議である。
私の視線はある土瓶に引きつけられ、その場から離れられなくなる。清代の物だと言われたが、そうだとするとそれほど古いというものでもない。その胴回りの一番太い所でも直径10センチ足らずの小さなものである。私はその姿、形に惚れ込んだといえる。どの角度から見ても見事にバランスのとれている調和の美に魅せられたのである。
茶を注ぐ時に握る取っ手も本体と同じ焼き物でできているが、その太さ、高さも土瓶の大きさと実によくマッチしていて素晴らしい。本体に描かれた貴人の舟遊びの図も陽気な絵柄ながら紺色は淡く上品で、その反対側いっぱいに書かれた漢詩も、土瓶の曲線に合わせて上に広く下に狭くつめて書かれていて、すばらしい安定感を見せてくれる。
その店のショーケースの中には同じような土瓶が並んでいたが、その中でそれは抜きんでて輝いて見え、私の目をとらえて離さなかったのである。
手に入れたいという気持ちが先に立っている私にとっては、その土瓶の骨董的価値などは二の次である。問題は値段である。値段を聞くと香港ドル700だという。店の女主人は、多分雇人ではなかったと思うが、インテリめいていてその静かな物腰はなんとなく親しめた。
彼女は品物の確かな点をしきりに強調し、私が何に魅せられたのかなどまるっきり知らないままに、「いい買い物です」とさかんにあおる。私はそこで身につけているありったけの値切りテクニックを試みることにする。すぐに650に下がり、やがて600となる。もう一声、500と攻めたが、彼女は頑として受けつけない。600がぎりぎりの線だという。
私は、ふと誰かが言った、「骨董屋で、どんどん値を下げて売ろうとしたら、その品物は必ずニセ物かインチキ物に決まっている」という言葉を思い出す。彼女が600で踏みとどまって、もう一歩も引かないという強い姿勢に妙に信頼感が沸いてくる。
私は一気呵成に結論を求めることは止め、話題を変えて雑談を始める。私がその店に入ってから、かなり時間がたっているのに他の客は誰一人として店に入ってこないのをとらえ、商品の回転が極端に遅い骨董屋のビジネスの話を始める。彼女は、1人も客が来ない日はしょっちゅうだと嘆く。商品を長期間寝かせねばならない商売に大いに同情を示す。私は彼女が打ち解け始め、次第にこちらのペースにのりつつあるのを感じる。
私は、やおら「この機会を逃したら、何時又この土瓶に興味を示す客が現れるかしれたものではない」と、チクリと心理作戦を試みる。ついに、「買ってくれるなら、もう50ドル負ける」という言葉を引きだすのに成功する。私はそれ以上攻めるのを止め、550で手を打つことにした。700ドルから550ドルに下がったが、考えてみれば2割引である。結局は彼女の思い通りの結末で、勝ったのはむしろ彼女の方かもしれないのである。
ここで、一つの手としてギリギリの550ドルに下がったところで、やおら香港観光協会・日本局長の名刺を出すと、さらに大きくドンと下がることは知っていたが、この手はショッピングには使わないことにしていた。妙な恩義感やら義務感がでてきて、立場上余り好ましいことではないからである。
何はともあれ、550ドルが高いか安いかは、人それぞれの価値観によって決まることではある。
私の「清代のものだと保証してほしい」という要求に、彼女は快く応じて、何か帳簿のようなものをめくりながら、英文で、『・・・清代の乾隆時代(1736ー1795)のもので約200年前に作られたものであることを証明する』と一筆書いてくれた。しかし、これが事実かどうかは私にとってはどうでもよいことである。証明書の日付は1980年12月10日である。 私は、例によって・・・日清戦争の100年ー150年も前のその頃、この姿のいい土瓶をそもそも何所の誰が使っていたのだろう?・・・どんな過去を背負ってこのハリウッド・ロードの骨董屋にたどり着いたのだろう?・・・中国の、ある街はずれの古家の土間に、鍋や釜などと一緒に転がっていたものを、ただ同然に引き取られたのかもしれない・・・などと、注ぎ口の細かい微かなひびに見える茶渋のあとをみつめながら、あれこれ空想をめぐらし始めたものである。