この話には、後日談がある。
その「ハンコ」の彫りに感心した印刻のプロが日本にいたのである。帰国後、私はその印鑑に相応しいケースを探し回った。少々長めのためなかなか適当なものが見つからなかったのである。
ところがある日、丸の内の某有名印章店に立ち寄り、印鑑を見せて適当なケースがないか尋ねることになる。実はその瞬間からその印鑑の格がまた一段と上がったのである。ケースのことはそっちのけで、興味深げにためつすがめつ印鑑を見ていた主人は、「何処で作りましたか?」という。
私は香港で印材を買い、そこで彫らせたと説明する。彼は「なるほど」「さすがだ」を連発しもう1人の店員に手渡しながら、何か専門の言葉を交えながら小声で話し合っている。2人ともその印鑑に少なからず驚いた様子である。何やら頷きながら感心している。
「その印鑑がどうかしましたか?」という言葉に、その主人は説明を始める。
それはこうである。先ず、日本では絶対にこのように深くは彫らない。技術的に難しいだけでなく欠ける危険性があるからだという。勿論、深く彫れば印肉が間につまりにくいという利点はあるのだが、特にこの印鑑の場合、字体が細いのでこの様に深く彫るのは大変難しいのだそうである。
「相当の腕をもった人でしょう」という。
象牙の印材も立派なもので素晴らしい印鑑だと持ち上げる。私は彫りが深いのか浅いのか全く気にもとめなかったのだが、やたらに褒められた結果、すすめられた少々高価な「とかげ」のケースを買うことになってしまった。ともあれ私はその時、主人から彫り賃を尋ねられなかったのでホッとしたのであった。
10香港ドルとはちょっと言えなかったからである。
ワシントン条約による厳重な規制により、香港にあふれていた材料の象牙を失った象牙彫りの職人達や刻印の職人達は、象牙以外の材料、例えばジェードを始めとする各種の石材、それに骨材などに活路を求め始めたが、最近一部の職人達は細かい彫りの技術が要求される高級なミニチュア人形を彫るという、まるで新しい分野に転向していると聞いた。人形の材料は鉛のような柔らかい金属らしいが、特に顔の部分に伝統的な繊細な技巧が生かされているのだという。
私の印鑑を彫った職人も、時に象牙を彫った感触を懐かしみながら硬い石の印材を彫っているかもしれないし、ひょっとすると彫りの深い(?)人形の顔を彫っているかもしれない。
いずれにしても、かつては溢れる象牙に埋まりながらこの世の春を謳歌してきた彼等だが、象牙がなくなっても持って生まれた天性的な技術は、どの新しい分野に進んでも、あの猛烈な生活力を糧にしつつ日を経るにつれ着実に磨かれていくことであろう。