次に社会主義体制が崩れ、ドイツが再統一して良かったと思うか、と問いかけてみると、「もちろん嬉しい。良かった。」としながらも、「当時置かれていた立場によって、その後は大きく違うから・・・」と言葉を濁す人もいた。
確かに国境が開かれ自由を勝ち得はしたが、国営企業で働いていた国民は皆失業。西側に頼れる親戚がいたり、再就職や身の振り方がすぐに決まったようなごく一部の人は幸運で、多くの人々が自由と引き替えにそれまでの生活の基盤を失い、困難な時代を迎えたのだった。西への人口流出による過疎化と失業問題は、今も旧東ドイツ地域が抱える大きな社会問題でもある。
ライプツィヒのホテルに勤務する青年は、当時幼かったので理解できる状況や内容は限られていたが、フランクフルトの遠縁を頼ったものの両親は相当な苦労をしていたと話してくれた。また、アイゼナハにいる知人の一人は、働いていた国営の工場が閉鎖。幼い子どもを抱えていたが、その子に与えるミルクや果物も手に入らず、非常に苦しい時期を過ごしたと涙を浮かべて当時を振り返った。
とはいえ、ハイテク技術を地場産業としていたイエナなどはすぐに企業の買い手がつき、他の都市とはその状況もかなり異なったという。それぞれに「壁崩壊の物語」があったことを再認識する。
では、東ドイツの人たちは西側に吸収される形で再統一し、何が大きく変わったのだろうか? エアフルトで知り合った人が、そのうちの大きな3つを教えてくれた。まず最初が「自由に旅行ができるようになった」という点、そして2つ目が「本が自由に読めるようになった」ということ。そして、最後が「ドイツという国籍を得た」であった。最初の2つは想像していたが、この最後の言葉には正直驚いた。
ドイツ再統一以前、私達は学校で東ドイツを「ドイツ民主共和国」と習い、恐らくほどんどの人間が「一つの国」として認識をしていた。だが、厳密に言うと、彼らにとって旧東ドイツは国家ではなく「党」。つまり、その党に支配されていた自分たちは国民ではなく、社会主義体制を形成する「一党員」に過ぎなかったのだという。
「国民という名の党員」。新たな一石が投じられた瞬間だった。
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5.感動のドイツ再統一
それぞれの「壁崩壊の物語」
再統一がもたらした観光の国ドイツ
私が次にベルリンを訪れた時は、壁の崩壊から18年が経っていた。その間にもドイツは何度か訪れていたが、あの灰色の風景が頭から離れず、どうしても足が向かなかったのだ。だが、壁の崩壊からおよそ10年に渡り再建が進められ、その記憶もたどれないほど街はダイナミックに変貌していた。
① タレント ② テクノロジー ③ トレランス(寛容)の3つの「T」を掲げるベルリンには、世界各地から若手アーティストやクリエーターが集まり、音楽祭や映画際も多数開催。市内には18のミシュランの星付きレストランもあり、ショッピングやナイトライフが充実するこの眠らない街で休暇を過ごそうと、若者を中心に世界各地から観光客が続々と人が集まってくる。現在はイタリアのローマを抜き、ロンドンやパリに次ぐ欧州第3位の観光都市へと成長。「ウォールシティ」から「ワールドシティ」へと鮮やかに蘇った。
「ずいぶんカラフルになったのよ。」一緒に食事やおしゃべりをしながら窓の外を眺めていると、旧東ドイツ地域の人々が口にする言葉だ。ドイツ再統一前は、この地域にある多くの建造物が戦後放置されていたが、ドイツ人は力を合わせ一つ一つを丁寧に修復してきた。もちろん、現在に至るまでには旧東ドイツ地域の人々の並々ならぬ苦労や努力もあったが、旧西ドイツ地域の強力なバックアップがあったことも決して忘れてはならない。
ベルリンの壁崩壊から国の再建へ。戦後の辛い国家分断の歴史を経て、ドイツ人は本当に大変なことをやってのけたものだと常々思う。