香港ワンダー・コラム

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 さて、本筋に戻す。およそ1千年前、中国大陸の北方では外敵の侵入が始まり、政情もまた不安定だったので、南方の香港やその近辺地域に移住する部族がでてきた。彼等は主として農耕に励んだが、その一部は広州東部から移ってきた漁を生業とするホクロ(Hokulo・鶴老)族と共に香港に住み着くことになる。      

 その後平穏な時代が続いたが、17世紀に入って異常な事態が発生した。
満州族の清王朝が中国の新しい支配者となったのだが常に反乱を恐れ戦々恐々としていた。やがて疑心暗鬼の末、何を根拠にしたのか、沿岸地域一帯が王朝に弓ひく謀反の温床になるに違いないと思い込んでしまったのである。

 そこで、思い切った反乱封じの手を考える。それは沿岸地域の住民を全部内陸に移住させてしまおうという、単純だが極めて強引な政策であった。この強制移住のため、せっかく香港に移り住んだ部族も不本意ながら香港を去らねばならないことになってしまったのである。

 しかし、この強引な政策もたった数年で取り止めになる。中止になるや否や極端な過疎地になってしまった香港に真っ先に移り住んだのは近くの広州人であった。彼等はやがて香港の市場を支配していく。続いて、移住してきたのはハッカ(客家)族であった。                 
 客家は1ケ所に長く定住することがなく移動を続ける民族で、そのためか世界各地に散らばっている華僑にも客家の子孫が多い。何時も住み慣れない、いわば異郷にいるために同族間の団結が非常に強いので知られている。また、何処でも『よそ者』扱いをうけるため『客』の名が付けられているのである。

 香港にやってきた客家は先住者の広州人と共存し、主として稲作などの農耕や香料、茶、パイナップルの栽培、それに塩田、石炭掘りなどに従事しながら香港に住み着くのである。
先史時代の原始人を除くと、この頃の広州人と客家こそが、始めて香港に定住した香港の主、つまり原住民といえるのではなかろうか。彼等はいはば「元祖香港人」なのである。

 話は変わるが、香港は半世紀にも満たない間に、金融、貿易の分野を始めとして経済的に世界のトップレベルと肩を並べる程に大きな繁栄をなしとげた。
しかし、この大発展をもたらしたのは先に述べた香港の原住民、「元祖香港人」の子孫ではなく、後年新しい移民として香港にやってきた、歴史的にみたら極めて新参の、「にわか香港人」達だったのである。その「にわか香港人」は何時、何故、香港にやってきたのだろうか?             
 ここでひと言付け加えねばならない。その新参の香港人は香港が『中国』ではなく、中国の主権の及ばない『英国植民地』だったから香港にやってきたのである。香港がもし中国領土の1沿岸都市であったとしたら今日の香港の繁栄はなかったかも知れないのである。
中国が内戦により共産化した時、何百万人もの避難民が中国から脱出した。彼等の相当部分は英国の植民地である香港に逃れてきて「にわか香港人」となったのである。

 その中には共産主義を嫌う多くの企業家、実業家や資本家、それに商才にたけた有能な人材が多数含まれていた。彼等やその子、縁者は香港で西欧式ビジネス慣習に短期間でなじみながら、自由経済の下で思う存分才能を発揮しつつ飛躍的に香港を変えていったのである。

 香港の人口はどんどん増加の一途をたどり、今や約650万人になっているのだが、定住している「香港人」の大部分は広州人で90%以上を占めている。しかし、他にも上海、潮州、福建などの多くのルーツを持つ。因みに董建華初代行政長官は上海からの移住者である。

 中国大陸の共産化と共に中国各地から避難民として香港に逃れてきた「にわか香港人」でありながら、短い年月の間に自由主義経済の香港に大きな繁栄をもたらし、いわゆる「香港原住民」をさしおいて、名実共に香港を代表する誇り高き「香港人」となった彼等なのだが、皮肉にも返還と共に中華人民共和国の主権下に入る香港特別行政区の市民として、また、同時に中国の公民として、再び中国に吸収されるのは感無量なものがある。

 西欧の空気を吸った彼等「香港人」が中国の近代化、さらには、より一層の解放に貢献することを祈るのみである。

参考資料:香港観光協会制作「トラベル・マニュアル」


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