文学者のみたローマ

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ゲーテのみたローマ(1786~1787)


ここではゲーテ『イタリア紀行』を参考にローマ見物をしてみましょう。

 「チロールの峠はいわば飛び越してきた。ヴェロナ、ヴィチェンツア、パドヴァ、ヴェネチアなどはよく見たが、フェララ、チェント、ボローニャは駆け足で通り過ぎ、フィレンツエはほとんど見物しなかった。つまりローマへ行こうという欲求が余りに強く、しかも瞬間毎に高まって足を留める気にならず、フィレンツエには僅々三時間いたばかりだ。
今やここに到着して心もしずまり、これで一生涯気も落ち着いたかに見える。なぜならば部分的に熟知していたものを眼のあたりに全体としてながめるとき、そこには新しい生活が始まるものだ。青春時代のなべての夢はいま眼の前に生きている」。

これは1786年11月1日にゲーテがローマ到着について記した文章の一節です。さらにゲーテは11月3日に、その事情を次のように記しています。

 「ローマへ急いだ主な原因の一つとして頭に描いていたものは、11月1日の万聖節である。実は私が考えたのには、一人の聖徒のためにさえこの国では盛んな祝祭が挙げられるのだから、ましてよろずの聖者の祭はいかに壮観であろうかと。しかしそれはとんでもない私の思い違いであった。ローマ教会は人目だつ一般的祭典はいっさい好まず、‥‥‥

しかし昨日の万聖節は、私にとってもっと成功であった。法王は丘上殿堂(クイリナール)内の礼拝堂で万霊の祭りを営まれた、‥‥‥

‥‥‥この万霊節は同時にまたローマにおけるあらゆる芸術家の祝祭でもあるのだ。礼拝堂と同じく宮殿全部とそしてことごとくの室が解放され、この日かなりの時間中、誰でも自由に出入できるのである」。 

クイリナーレの丘はローマの七つの丘の中で一番高く、クイリナーレ宮殿は現在大統領官邸としてつかわれています。

 「この方面の消息にくわしく、美術、歴史に通暁したイギリス人に案内されて、イタリアの国を見物して見たいものだという熱望は、以前私のしばしば抱いた気紛れの考えであった。ところが今やその事が夢想もしなかったほどうまく運ばれている。ティッシュバインは私の心からの友人として、この地に長くおり、私にローマを案内する気でいてくれた」。

この文章を読むと、ゲーテの理想の案内人はローマ帝国衰亡史を書いたギボンであったような気がします。またハミルトン領事もそのような教養をもったイギリス人の一人であったように思います。

 「ゲーテは11月7日、ラファエロの歩廊やアテネ派の偉大な絵を見物し、9日には、私はロトンダの内外の偉大さにすっかり心を打たれた。聖ピエトロではまた芸術や自然が全く物の尺度の比較というものを超越し得るゆえんを学び、さらにベルヴェデレのアポロは私を現実界から消し去った」。

と記しています。この間ゲーテはヴァティカンから強い印象を受けたようです。

 「10日には、ケスティウスのピラミッド(聖パオロ門の傍らにある)を見物に出かけ、夕刻にはパラティノの丘に登り、岩壁のようにそそり立つあの王宮の廃墟に立ちました。11日には、水精エゲリアの洞室を見物し、それからカラカラの競馬場(アッピア街に沿っているマクセンティウスの競馬場であろう)、アッピア街に沿う荒れはてた墓地、堅牢な防壁工事の何たるかを教えてくれるメテラの墓なども見ました。

15日、ローマ近郊の良い白ワインの産地として有名なフラスカッティにある別荘に遊んでいます。17日、アンドレア・デラ・ヴァレ(今のヴィットリオ・エマヌエレ大路)にあるドメニキーノの壁画とカラッチの描いたファルネーゼの画廊の壁画を見物。18日、ファルネジーナで、プシケの物語を見、それからモントリオの聖ピエトロ寺院ではラファエロの「変容」を見ています」。

22日、この日の日記に、ゲーテはシックストウス礼拝堂について、次のように記しています。

「‥‥そこは明るく朗らかで、絵も十分に光線をうけていた。ミケランジェロの「最後の審判」やその他の天井画を見て、私たちは一ように感嘆した。私は眺め入ってはただ驚くのみであった。巨匠の内面的な確実さと男性的な力、偉大さはとうてい筆舌の尽すところではない。繰り返し繰り返し眺めたあとで私たちはこの聖堂を辞し、大空からうららかな光を受けて、どこもかしこも鮮明な聖ピエトロ寺院へ足を運んだ。私たちは鑑賞する者として、あまりに厭わしくあまりに分別くさい趣味によって混迷させられることもなしに、その偉大さと華麗さとを楽しみ、批評がましいことは一切避けた。われわれはただ喜ぶべきものを喜んだのである」。

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