大野ただしの南イタリア周遊記

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幻滅のマグナ・グラエキア

ガリポリ旧市街を望む
今度の旅行(2002年3~4月)に南イタリアの長靴の底辺りを選んだのは、「マグナ・グラエキア」、古代ギリシャの植民都市の面影を探りたかったためだ。

最初に訪れたプーリア州では、ノルマン王朝時代に築かれた城塞が、ほとんどの都市に残されているのに驚かされた。中世以降では、ギリシャも徐々にイスラム化して、南イタリアとして異教徒への防禦が必要となったのだろう。しかし、ノルマン朝の直接の敵はビザンティン帝国だった。一方、肝心のギリシャの遺跡となると、昔のアクロポリスに今も人々が住みついて、ほとんど遺跡の跡をとどめていない。

ガリポリでは旧市の入り口に、言いわけ程度にギリシャの泉の跡が残されていた。
ターラントでも、「マグナ・グラエキア」という道路標識が街中にあるものの、ドリア神殿のたった二本の柱を除くと見るべきものはない。

カラブリア州でも、目を引くのはやはりフリードリッヒ二世の事跡であった。プーリア州でも「カステル・デル・モンテ」というお城に代表されるように、各地に城砦を造っているが、コゼンツアの教会には、ここのドゥオモの建設を記念してフリードリッヒ二世から贈られたストウロテーカという宝石で飾られた、輝く十字架が残されている。街を見下ろして聳え立つお城は、「スヴェヴォのお城」つまりフリードリッヒ二世が血を引く「ホーエンシュタウフェン家のお城」と呼ばれていた。彼はノルマン王朝のお姫さまとドイツの神聖ローマ皇帝との間に生まれ、彼自身も皇帝となったが、その人生のほとんどをシシリアと南イタリアで過した。

クロトーネの街の中心
しかし、ギリシャの遺跡となるとさっぱりである。発掘が進んでいろいろの出土品もあり、ギリシャの影響が大きいことは分っているが、シシリアのような目を引く神殿や劇場跡は少ない。

この州のクロトーネはピタゴラス学派が栄え、北東にあった同じ植民都市のシバリスを滅ぼして、川底に埋めてしまった、という話は有名である。
この街から見えるカポ・コロンナという岬にたった一本のギリシャ様式の柱が残されている。ヘレナの大神殿の跡で、1638年の地震で一本だけが残された、とのこと。

では倒れた柱は何処へ行ったのか。ギッシングは、「十六世紀までは神殿がほぼ完全に健在で、四十八本の柱がイオニア海の上に聳え立っていて、・・・・ところが十六世紀にアントニオ・ルチフェロとかいうコトローネの司教が、神殿を破壊略奪して、司教邸の建材にしてしまった。それから三百年足らず経て、一七八三年の大地震の後に、コトローネは港を強化するために、神殿の基礎石材を調達した。これは前よりは合法的だが、破壊略奪であることには変わりない」と書いている。

カポ・コロンナのたった1本の柱
この件について、この街の市立博物館の女性は、僕が今偶然泊まっているホテル・イタリアの前の二十本を越える柱が、神殿の柱そのものだと話してくれた。そう言われてこの柱に近づいて見ると、全く本物に見えてくる。興味深いことに、このことをこの街は宣伝していない。この点も、「この教会はアポロ神殿の跡地にその柱を使って建てた」とあっけらかんと書くシシリアと対照的である。

ここで僕に残された最後の希望がバジリカータ州のメタポンテになった。この町はターラントから西に44キロのところにある。この町で最も有名なヘラ神殿の十五本の柱は、メタポントの駅から5、6キロは離れたところにあるが、季節はずれということで歩くより他に交通手段がない。僕は幸運にも側を走る高速道路からこの遺跡を眺めることができた。丁度ターラントからメタポントを経てサレルノへ行くバス路線に沿って立っているのだ。

この他に広大なギリシャ時代の神殿と都市の跡があるが、ほとんど昔の姿を留めていない。町中にある博物館には、この遺跡から発掘された壷やお墓の埋葬品が数多く展示されている。しかし、この時期に訪れる人はほとんどいなかった。
これは復活祭の季節での、ナポリ近郊と南イタリアのこの地方との大きな違いだった。


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