『イタリアへ行く皇帝の道はミュンヘンからティロールを越え、インスブルックとボーゼンを過ぎてヴェローナに、山また山を越えて行く。神聖ローマ帝国の皇帝たちが南へ下るときも、薔薇色に明るいイタリアから祖国ドイツに帰るときにも、その大いなる行列はこの道を通ったのであった。
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インスブルック |
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おそらくドイツ人の気性には誇大妄想癖といったものが宿っているのである。もし各民族が自分たちには自らなる特性があると悟り、また互いに相手民族の特性を理解して折合いをつけることができさえしたら、今よりどれほど簡単に事が運ぶことであろう。』
長い引用になりましたが、D,H,ローレンスの「イタリアの薄明」の冒頭の文章からです。
ローレンスはこの旅行紀の中で、哲学的な思索を長々と述べますが、これにはハインリッヒ・ハイネの「ミュンヘンからジェノバへの旅」というお手本があります。
そのハイネはどうかというと、ミュンヘンからヴェローナまで、ほぼゲーテの「イタリア紀行」と同じ道筋を辿っています。それは1828年のことです。
1829年に刊行されたこの本の中で、あの有名な「君よ知るや、南の国」の詩については、二章にわたって言及しています。
第26章の冒頭は、次のような文章で始まります。(ハイネ散文作品集第2巻 松らい社刊行より引用)
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インスブルック |
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君知るや、この歌を? 歌の中に全イタリアが描かれている、ただし溜息色のあこがれの絵の具で。ゲーテは『イタリア紀行』で、右の歌よりいささか詳しくこの国を歌っている。そして彼が描くところ、いつもオリジナルが目の前にあったから、輪郭と彩色の忠実さは信頼できる。それゆえ私はここで、断然ゲーテの『イタリア紀行』に依拠するのが便利だろうと思う。それも、ベローナまでは彼もチロル経由で同じ旅をしているからなおさらである。・・・・・
ゲーテは自然に鏡をあてている。あるいはもっとよく言えば、ゲーテそのものが自然の鏡なのである。自然は自分がどう見えるのか知りたがり、そうしてゲーテを創造したわけである。それどころかゲーテは、自然の思想、自然の意図までもわれわれに写しだして見せる。』
これはかなり嫌みな文章です。
第27章では、「君知るや、」の詩の第一節の全文が引用された後に、次の文章が続きます。
『ーーとは言え、八月の初めだけは旅行しない方がよい。日中は太陽に焼かれ、夜はノミに食われるからだ。』