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作家たちに愛されたモンパルナスのカフェ
「タクシーはロトンドの前でとまった。セーヌの右岸からタクシーに乗って、モンパルナスのどこのカフェの名前を言っても、運転手は、きまって客をロトンドへつれてくる。あと十年もしたら、それがドームということになるのではあるまいか。いや、もうそうなりかけているようだ。ぼくはロトンドの古びたテーブルの前を通りすぎて、セレクトへ行った。」
パリのカフェといえば、必ず引用されるアーネスト・ヘミングウエイの「日はまた昇る」の一節です。先の藤村のパリが第一次大戦中であるのに対して、こちらは1920年代初めの戦後のパリです。
ヘミングウエイは「移動祝祭日」の中で、友人の作家たちをパリのカフェを背景に実にいきいきと描いています。
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ヘミングウェイが愛したカフェ 「クローズ・デ・ラ」のテラス |
「私たちが製材所の上の方にある、ノートルダム・デ・シャン街113番地のアパートに住んでいたとき、クロズリ・デ・リラは、一番近くにある良いカフェであり、また、パリ中でも最上のカフェの一つであった。・・・・
ドームやロトンドなどのカフェから出てくる人びとは、決してリラへはやってこなかった。」
1936年ベルリン・オリンピックの特派員としてパリを訪れた横光利一は、「旅愁」の中で、「このすぐ横にリラといふカフェーがありますよ。ここへも藤村が毎日行ったといふことですから、・・・」と矢代から千代子に説明させています。
しかしこの頃には、ドームが主人公たちの日常の舞台となっています。この小説の主人公たちが、作家の東野と初めて出会うのもドームです。
この横光を異常に意識してパロディ化した作品をかいたのが遠藤周作だったように思います。以下「留学」からの引用です。
「・・・・今夜ぐらい、日本人たちの集まってくるキャフェ・ル・ドームを御案内してあげましょうか。
キャフェ・ル・ドームやクーポールの名は、田中も前から耳にしていた。それはモンパルナスの文学青年や芸術家たちの集まる場所で、日本人の画家や留学生の溜り場所にもなっている所だった。・・・・・
小野さんなんか、ル・ドームにいけば必ず掴まえられますよ。あの人は毎晩あそこで飲んでいるから。・・・・」
「モンパルナスの歩道に出た時、正直な話、田中はがっかりした。・・・・だが今、彼の眼にあらわれたモンパルナスは、東京でいえば、荻窪か中野の駅前よりももっと暗い灯と人影のない通りなのである。所々についているネオンの色も、彼が学生たちとよく飲みにいった渋谷や新宿にくらべると、はるかにみすぼらしかった。・・・・」
この文章が「旅愁」の中で、久慈が語る以下の文章を下敷きにしていると思うのは、考え過ぎでしょうか。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにさうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
「田中君、シャルトルはもう行ったかい。なに、まだか。あれは一見に値するね。兎に角、あの教会の色硝子は立派なもんだ。あれに比べると、ほかの教会の色硝子など見られたもんじゃない。俺はあれを見ながら、これに及ぶものはノートルダム寺院ぐらいかと思いましたよ。君、横光さんの『旅愁』を読んだかい」
・・・・正直いって、彼はあの日本の作家の西洋の見かたが浅薄なのにうんざりしたのを憶えているだけだった。・・・・
真鍋は横光利一が、俳句の叙情とノートルダムの叙情とが共通していると書いた「旅愁」の一節をしゃべり続けている。・・・・
しかし、巴里に三十年も住んだこの小原という男が本当に横光利一の愚論に耳を傾けているとは田中には思えなかった。「旅愁」という小説がどんなに出鱈目な西欧解釈でしか成りたっていないかを、田中は思わず口に出しかけて、いつかの口論を思いだし、口をつぐんだ。
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