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神津船長よもやま話

 3日目、ふじ丸は商船三井客船と協力し、客船誘致に取り組んできた鯵ヶ沢町・七里長浜港に入港。岸壁には「神津船長ありがとう」の横断幕がいくつもはためき津軽十町村の名産品を即売する物産展のテントが賑やかに並んでいる。太鼓の演奏や花束贈呈の盛大な歓迎式典も執り行われ、神津船長は長谷川兼巳町長より七里長浜港名誉ポート推進監に任命された。
 港からミニ白神〔ユネスコの世界自然遺産に登録された白神山地と同じ林層を持つ散策コース〕までは鯵ヶ沢町の好意で無料のシャトルバスも用意された。ミニ白神は自然味がいっぱい。熊の爪痕が残るブナ林。葉が亀の形に似ているオオカメノキ。紅鱒の身の色のようなピンクのキノコ・マスダケ。途中に置いてある聴診器を太いブナの幹に当てると、ゴーゴーと水を吸い上げる生命力が伝わってきた。

 一方、ふじ丸は地元の老若男女340人を船内見学会に招待し交流を深めた。普段あまり見る機会がない豪華客船の内部に目を丸くする少年少女たち。このなかの何人かが神津船長が幼い日に海を見て船乗りに憧れたように、仕事場として、あるいは、お客様としてこの船に戻って来ることがあるのかもしれない。やがて、出港の時。岸壁につめかけ手を降る人々に、神津船長は汽笛でお別れを告げた。

東京湾入港 最後の操船
 4日目に行われた「神津船長のよもやま話」は、さすがに船長として語る最後の講演だけにメインホールは大入り満員となった。青年の船の思い出話や、中東戦争当時の苦労話等々、経験豊かな船長ならではのエピソードをユーモアを交えて語り、所々でお得意のハーモニカ演奏まで披露し、拍手喝采。終了間際に、突然1組のご夫婦が「どうしても神津船長にお礼を申し上げたい」と、立ち上がった。

「それは、アジア・オーストラリアクルーズでのことでした。兄の戦没地ペリリュー島沖を航行するとき神津船長から『操舵室にお越しください』という連絡をもらいました。真夜中でしたが、操舵室に入ると船長、機関長、チーフパーサーの3役が正装で待っていてくれました。私たちは兄の好物を海に投げ、何度も兄の名を呼び、おかげさまでやっと戦後を迎えることができたのです。その暖かい配慮にどれだけ感激したことでしょう」。
 涙ながらに語るご夫妻の言葉に、会場にもすすり泣きがもれた。
 神津船長への花束贈呈は、お兄さんで元佐久市長の神津武士さんから。「これまで、皆様が弟に寄せてくださったご厚情に感謝いたします。私たち家族は、弟が海に出ているときは、両親が亡くなったことさえ知らせませんでした。それが、たくさんの尊い命を預かり、重責を背負って頑張っている弟へのせめてもの思いやりと考えたからです」。
 船長といえば船乗りの憧れの的。ましてや豪華客船の船長ともなれば、紛れもない海の花形である。しかし、その陰にはおもてからでは計り知れない船長自身が味わった悲しみ、苦しみそして喜び。それを支え続けた家族の支援もあったわけだ。

 最終日。神津船長はお客様へのラストプレゼントとして、伊豆諸島周遊をコースに追加し、朝日を浴びた神津島への接航も試みた。
 日本では、クルーズとは「服装」等々が難しい、とっつきにくい旅と思われがちだが、神津船長は「クルーズはお母さんの背中。お客様が安心しリラックスできる場でありたい」をモットーに親しみやすい船旅作りを心がけてきたという。確かにそのクルーズは、いつも親心を感じる温かさに満ちていた。
 スターキャプテンにありがちな、自分にばかりスポットライトが当たるのを好むのではなく、常に「お客様とともに感動できるクルーズ」を目指した、頼もしくて気さくな、偉大なる船長さんの最後の港は、ふじ丸の母港・東京港。無事に船をつけた瞬間、数秒だけ感慨深げな表情を見せたものの、ウイングから手を降ることも、仰々しいお別れスピーチの船内放送をかけることもせず、お客様を見送るため、足早に操舵室を飛び出していった神津船長。その去り際のいさぎよさがまた見事であった。

 クルーズが終了して、2カ月ほどたった冬の日、あるお客様から1通の手紙が私の元に届いた。
「寄港地が魅力で申し込んだ初めてのクルーズでしたが、神津船長のお人柄に触れ感激しました。クルーズとは、移動の過程、そして人との出会いも面白い旅なのですね。また乗ってみたくなりました。」
 常連さんにも、初めてのお客様にも分け隔てなく大切に接する姿勢を貫き通した神津船長は、最後の航海でもまたしてもクルーズファンを増やして、船を下りていったのであった。

筆者より: 商船三井客船の元船長・神津定剛氏は、2000年11月20日に逝去されました。謹んで ご冥福をお祈り申し上げます。

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