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2.ソ連にKGBあらば、東ドイツにシュタージあり

更新日 : 2014年12月17日

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政治犯収容所博物館


泣く子も黙る秘密警察「シュタージ」

Ministerium für Staatssicherheit

国民を威圧したシュタージ

ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が国を掌握するための手段として利用し、独裁政治を支えたシュタージ(正式名は国家保安省)。この悪名高きシュタージに囚われた国民の数は25万人を超え、東西ドイツの再統一から25年目を迎えようとする今日でも、当時のシュタージの恐怖に脅かされている人は少なくない。

ベルリンに東西を分断する壁が築かれたのは、1961年8月のこと。1950年から1960年にかけて東ドイツの経済状況し、豊かな西側への亡命者が続出したことが壁建設の理由であった。だが、壁の建設後に状況はさらに悪化。これにより逃亡の意図を口にしたり、国外への旅行の申請を行ったりした者は、誰でも収監される可能性があった。

そして、「逃亡の危険あり」と判断された者、社会主義統一党を批判する者たちは政治犯として囚われ、公式には存在しなかった政治犯収容所へと送られ恐喝を受けた。諸処を解明する記録はほとんど残っておらず、収監理由が未だに特定されない人もいる。時には正式な亡命手続きを申請した人も、濡れ衣を着せられて捕らえられたという。現在もわずかに残された文書の復元が一つ一つ手作業で行われ、明らかになった内容は収監された本人と家族に限り、閲覧が許可されているそうだ。

旧東ドイツ国民はこうして長い間、国家という名の牢獄に押しとどめられ、常に監視され、まったく自由が許されない窮屈な日々を余儀なくされていたのだ。


敵は身内にあり

P1030770

国家保安省の政治犯収容所博物館

実は今回取材をしていて最も神経を使ったのが、このシュタージに関することだった。先述の通り、未だこのシュタージの恐怖に怯える人は少なくなく、何気ない会話の中であっても、要の部分になると口を閉ざしてしまう人がいたからだ。

取材に協力頂いた現地のガイドさんも、その一人だった。恐らくその事柄について話して、更なる質問を投げかけられることを恐れていたのであろう。帰国後に何度かのやり取りを経て、こんな話しをしてくれた。途中の細かい詳細は省くが、その点は情報提供者への配慮とご理解頂ければ幸いである。

東西ドイツの分裂時代、彼女は社会主義体制に批判し、自由のために戦う活動をしていた家族と親しくしていた。家族は夫と妻、そして二人の間に3人の子どもがいた。ある日、シュタージが現れ夫を連行。政治犯収容所に収監された。妻はシュタージの手が自らに及ぶことを恐れ、万が一の時には牧師に子どもたちを委ねる準備までしていたという。

幸い妻が囚われることはなく、数年後には一家揃って東ドイツを離れることとなり、西ベルリンへと移り住んだ。そして、再統一後にイエナにほど近い、生まれ故郷の小さな町へと戻ってきた。そして、そこで愕然とする事実と向き合うことになった。シュタージの文書ファイルを閲覧していたところ、なんと自分を密告した人間は血の繋がった兄弟だったというのである。

実はこうした話しは珍しくはない。さすがにスパイが家族というは事例は、それほど多くはないかも知れないが、友人や知人、職場の同僚など、当時は生活のあらゆる場所にスパイが潜んでいた。シュタージは西ベルリンにも潜伏し、東からの逃亡者を見つけては「東に残して来た家族がどうなっても構わないのか」と脅して東に戻したり、スパイに仕立てたりしていたのだという。この話しを聞いて、以前ドレスデン取材でお世話になったガイドさんが、母親に幼稚園や学校、人前で自分の考えていることは絶対に口にしないよう、口が酸っぱくなるほど注意をされたと話してくれたのを思い出す。

民主主義の国で生まれ育った人間には少々理解しづらい状況かも知れないが、幕末から明治にかけて「鎖国」「倒幕運動」「明治維新」を経て今日に至っている日本人には、これらを「独裁政治(ベルリンの壁)」「平和デモ」「平和革命」と置き換えれば、案外身近なテーマとして捉え、理解もし易いのではないだろうか。日本とドイツの近代史は、本当に類似した点が多いことに驚かされる。

チューリンゲンの州都エアフルトには、実際にシュタージの政治犯収容所として使用されていた建物が、博物館として一般公開されている。建物の一部は改修されているが、牢獄があった場所は当時のまま。ここにはエアフルトから一番近い国境、アイゼナハ周辺で逃亡を図った人も収容された。新設された展示室では、実際にここに囚われていた人の貴重な話しが映像で流され、モダンな鏡張りの外壁には平和革命の様子が描かれている。


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