その日は突然にやって来た。1989年11月9日の20時、テレビで「東ドイツ、国境を開く」のトップニュースが流れると、その3時間後の23時には、2万人近い人々がボルンホルム通りの検問所に押せ寄せた。
その勢いに押され国境検問所が国境を開いたのは、日付も変わろうとしていた11月9日の23時半のこと。28年間、ドイツを東西に分断していた「ベルリンの壁」崩壊の瞬間だ。西ベルリン市民は歓喜の声をあげ、東から続々とやって来る東ドイツの人々を出迎えた。「まさか!」と誰もが、己の目と耳を疑った瞬間だった。
近代ドイツ史において最も衝撃的なこの出来事に、世界中の目は一斉にベルリンに注がれた。私もこのニュースに衝撃を受けた一人である。「ベルリンで一体何が?」その疑問は、日増しに大きくなっていった。「私もその歴史の現場を見に行きたい!」という気持ちが膨らみ、やがて抑えきれなくなっていた。だが、壁が崩れたと言っても、自分が行こうとしている場所は、泣く子も黙るあのシュタージのお膝元。ドイツ再統一前で、再びクーデターが起きないという保証は何一つなく、外国人の入国についても情報は不十分。一先ず身の安全を最優先とし、情勢が落ち着くのを待った。
結局私がベルリンへ旅立ったのは、壁の崩壊から数ヶ月が経過してからのこと。妹の小学校卒業を待ったためだ。
「いい社会勉強になるから」と、妹を連れて行くことを条件に、母親から航空券の援助の申し出があったのだ。
英会話にはほとんど問題がなかったとはいえ、当時はドイツ語がちんぷんかんぷん。そんな状態で、外国語の知識ゼロの妹を連れてベルリンへ行くのは正直不安で、行動範囲が狭まることも分かっていたが、格安でも30万円は下らない航空券の援助は有り難い話しだったので、結局それを受けることにしたのだった。
渡航中、私が何らかのトラブルに巻き込まれた時には、妹のことは西ドイツと国境を接するバーゼルにいたスイス人の友人を一時的に頼ることで母も同意した。