その勢いに押され国境検問所が国境を開いたのは、日付も変わろうとしていた11月9日の23時半のこと。28年間、ドイツを東西に分断していた「ベルリンの壁」崩壊の瞬間だ。西ベルリン市民は歓喜の声をあげ、東から続々とやって来る東ドイツの人々を出迎えた。「まさか!」と誰もが、己の目と耳を疑った瞬間だった。
近代ドイツ史において最も衝撃的なこの出来事に、世界中の目は一斉にベルリンに注がれた。私もこのニュースに衝撃を受けた一人である。「ベルリンで一体何が?」その疑問は、日増しに大きくなっていった。「私もその歴史の現場を見に行きたい!」という気持ちが膨らみ、やがて抑えきれなくなっていた。だが、壁が崩れたと言っても、自分が行こうとしている場所は、泣く子も黙るあのシュタージのお膝元。ドイツ再統一前で、再びクーデターが起きないという保証は何一つなく、外国人の入国についても情報は不十分。一先ず身の安全を最優先とし、情勢が落ち着くのを待った。
結局私がベルリンへ旅立ったのは、壁の崩壊から数ヶ月が経過してからのこと。妹の小学校卒業を待ったためだ。
「いい社会勉強になるから」と、妹を連れて行くことを条件に、母親から航空券の援助の申し出があったのだ。
英会話にはほとんど問題がなかったとはいえ、当時はドイツ語がちんぷんかんぷん。そんな状態で、外国語の知識ゼロの妹を連れてベルリンへ行くのは正直不安で、行動範囲が狭まることも分かっていたが、格安でも30万円は下らない航空券の援助は有り難い話しだったので、結局それを受けることにしたのだった。
渡航中、私が何らかのトラブルに巻き込まれた時には、妹のことは西ドイツと国境を接するバーゼルにいたスイス人の友人を一時的に頼ることで母も同意した。
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4.まさかの「ベルリンの壁崩壊」
ドイツ史上、最も劇的な事件「ベルリンの壁崩壊」
ベルリンの壁崩壊をめぐる旅物語
ベルリンへ行く前に先ずパリへ立ち寄り、少し情報収集をすることにした。パリを選んだ理由はいくつかあったが、すでにドイツ国民は東西の行き来が自由になっているとの情報は得ていたものの今一つスッキリせず、日本での報道以外に現地の様子などを、ドイツ入国前にもっと隣国で確認したかったというのが主な理由であった。
東西分裂時代は、ベルリン以外の東ドイツ入国には、限られた候補の中から滞在するホテルを予め予約した上で、当然のことながら査証申請が必要で、鉄道で旧東ドイツ領を移動する場合も「トランジット査証」が必要だった。
この時はベルリンだけを目的にしていたため入国査証の申請は不要であったため、駅窓口ではトランジット査証の件のみ尋ねる。「恐らくもう大丈夫」だという。「恐らく」という言葉に少し不安を覚えたが、もし問題があったら国境駅で列車を降れば良しとし、夜行で西ベルリンへと向かった。
今でこそICEなどハイテク技術が導入された、ボディも美しい高速鉄道がバンバン走るヨーロッパだが、当時の鉄道旅行は正直お世辞でも快適とは言えなかった。西ベルリン到着の数時間前には、トイレの便器の上まで汚物がたまって便座に座ることもできない、目を覆いたくなる有様だった。
国境が近づくにつれ、思わず背筋が伸びる。壁崩壊前は国民の脱出を阻止するため、国境駅で列車内に犬を放ち荷物などに潜んだ脱出者を探した。だが、確かに事前に得た情報通り国境駅は何事もなく、列車は静かに西ベルリンを目指して走り出した。ただ、旧東ドイツ領内を走る車窓からの田園風景は雑然とし、西ドイツとの差は歴然であった。
余談だが、人を襲うよう訓練されたそれらの犬たちはドイツ再統一後、ペットとして引き取り手を探すことは無理があったため、番犬として引き取られていったという。殺処分にはしなかったと知り、ドイツらしいと思った。
西ベルリンに到着したのは、出発した翌日の朝5時半過ぎだったと記憶している。日本にいたドイツ人の友人に紹介されたホテルへ行き荷物を預け、直ぐさまベルリンの壁があった場所を目指す。外は冷たい雨。時代に置き去りにされたドイツ連邦議会議事堂に、脱出に失敗した人たちが眠る墓や慰霊の「白い十字架」 etc… 心が痛い。
わずか数ヶ月前まで「ベルリンの壁」があった場所に立ち、左右(東西)を見比べる。人が動き始め、生活音や音楽が響きわたる西側に対し、不気味な静けさが広がる東側。あの歓喜にわいた「ベルリンの壁崩壊」は、本当の出来事だったのだろうか? 壁こそ消えて無くなっていたが、視線の先の東ベルリンはあの歓喜とはほど遠い灰色の光景が広がっていた。