東洋・西洋 共存の魅力
香港の不思議な魅力緒発信源は東洋と西洋が混然として溶け合いながら共存しているところにもあるといえる。英国は植民地としての香港から中国的なもの、あるいは東洋的なものを排除して西欧化することなく、共存する道を選んだ。日本ならさしずめ同化政策をとり、徹底した日本化を計っていたかもしれないところである。
中国の国民政府が中国共産党に敗れ、1949年に共産主義体制の中華人民共和国が誕生した時、共産主義を恐れ、また、共産化する中国の将来に希望を失った何百万もの人々が、避難民として英国の直轄植民地である香港に流れ込んだ。その中には優秀な知識人や、上海などで貿易などに従事していた実業家や、商才にたけた商売人などが多数含まれていたのである。
彼等は住み心地のいい英国の植民地、香港でゼロからスタートを開始するが、もともと才能のある彼等は、自由な香港で実力を思う存分発揮し始める。英国は彼等を尊敬し、香港に定着した彼等も次第に英国の植民地政策になじみながら、指導的役割を果たしていくのである。
事実、今日の香港は彼等によって築き上げられたものであり、前にも述べたが、決して香港政庁が独自で生み出したものではない。英国は、しかし、彼等が思う存分腕を発揮できるような生活環境作り、つまり、賢明な植民地政策を行なった点で高く評価されるべきであろう。
香港は英国の植民地としてその行政下にあったが、中国の文化、風俗習慣、先祖から受け継いだ伝統、中国の生活様式などは全面的に尊重され、いかなる場合でも犯されるようなことはなかった。言葉も、中国語(広東語)は英語と並んで公用語として認められ、英語だけを強制するようなことはなかったのである。
というわけで、香港には『中国的香港』と『英国的香港』が調和を保ちながら仲良く共存していたのである。
香港には2つの暦がある。太陽暦と中国古来の旧暦である。香港の人達はその、まるで異なった2つの暦をうまく使い分けながら両立させている。太陽暦による西欧風の生活方式を100%受け入れながら、一方で旧暦による先祖伝来の中国のしきたりとか祭事、因習などをかたくなに守る二面的な生活をしているのである。
英国は植民地香港に旧暦を捨てさせ、太陽暦を押しつけるようなことはしなかった。むしろ、旧暦による中国の習慣を尊重し、自ら馴染んでいったのである。 事実、香港に住むすべての人達にとって、例えば、「恭喜発財」(コンヘイファッチョイ)といいながら祝うお正月は旧正月、つまり旧暦によるお正月で、太陽暦の1月1日は単に年の最初の月の最初の日でしかないのである。
もっとも、太陽暦に生きる「よそ者」達は、12月31日の大晦日には行く年を送るドンチャン騒ぎをしてうさを晴らし、また、たまたまビクトリア・ハーバーに寄港していて新年を迎えることになった外国の船舶は、1月1日の午前零時には一斉に汽笛を鳴らして来る年を祝う。
しかし、土地の人達は、西欧人もふくめて、みな、1月の最初の日などにはあまり感慨を抱くことなく、きたるべき旧暦による「本当のお正月」の休日を心待ちにしているのである。
このような西欧と中国双方の伝統の共存と融和は、観光的にも面白い魅力をもたらしている。どっちつかずのもの、つまり、西欧的なものと中国的なものが化合して、そのどちらにも属さない1つの異質なものが育ってしまうことなく、本物の英国的西欧と純正中国が混合しながら両立し、香港ならではの魅力を生み出しているのである。