パラオ紀行
[青き海を満喫] このあとは、ドイツ植民地時代につくられたジャーマン水道を南に抜け、ビッグ・ドロップ・オフという海の中の崖でシュノーケリング。熱帯魚やナポレオン・フィシュと泳いだ。昼食は、無人島(コロール州の公園)ガルメアウス島でガイドが作ったバーベキューランチを堪能し、木陰で昼寝をする。パラオは年間平均気温が27.9℃で日陰にいる限り過ごしやすい。午後は、イノキ島付近で80年以上生息している1mを越す大シャコ貝と再会した。 しかし、まわりの枝珊瑚は消滅しており実に寂しい光景が広がっていた。現地ガイドによると泳ぎのできない台湾のお客が、水泳する際に足ヒレで踏み潰したから無くなったというが、それだけではないだろう。世界各地の自然を脅かす、地球温暖化の影響が最も大きい理由と考えられる。 * ロック・アイランドのツアーはコースにより$85~$95 [パラオ建国の歩み] パラオ人の起源は、フィリピン、インドネシア方面から渡来してきたモンゴロイドであるという説が有力である。西洋人との接触は1529年にイギリス人がパラオに現れたのが最初だとされる。その後、列強各国に植民地化されてきた。スペイン、ドイツ植民地時代があるが、それらはキリストと貨幣経済の基礎、プランテーションにおける労働が持ち込まれた。日本統治時代は、近代資本主義、学校教育、官僚システムによる国家統治が制度として持ち込まれた。アメリカ統治時代は欧米型の数々の制度が発足した。 一方、伝統的首長たちによる合議制度は縮小していった。1978年の住民投票でミクロネシア地域の統一国家から離脱することを決定。1981年に自治政府を発足させた。1994年10月1日、アメリカとの自由連合国として独立した。独立後はアメリカからの援助金と観光産業の発展により経済成長が進んだ。日本からの観光客はバブル崩壊後も安定して増えており、年間2万人を超すまでになった。定期便のコンチネンタル・ミクロネシア航空に加え、日本航空のチャーター直行便が頻繁に飛ぶようになり、ツアー価格も15~25万円と手ごろになっていることから、しばらくは安定成長が見込める。 [パラオの未来] 在パラオ日本国大使館が作成したレポートによると、アメリカからの自由連合協定(コンパクトとよぶ)にともなう一括援助資金1億6500万ドルは2001年までに、ほぼ使い切っているという。日系のナカムラ大統領(第6代)の働きで日本からのODAもあるが、それも縮小傾向にある。外国からの資金援助や投資に依存し、国家開発、経済成長をこれまでつづけてきたパラオであるが、アメリカからの財政援助は2009年に打ち切りとなる。 世界システムから遠く離れた周辺部に位置するパラオの運命は世界主要国の影響のもとに決められる。パラオの主要産業のひとつ、マス・ツーリズム型の観光であるが、観光客を送り出す国(日本、台湾など)が不況になった場合、19,000人足らずの小国は経済的ダメージが深刻である。植民地時代以前の自給自足型生活に戻るか、あたらしい産業を興すか、また新たな財政援助をとりつけるか選択を迫られる時期がいずれやってくる。第7代、レメンゲサウ・ジュニア大統領の舵取りで経済的依存構造脱却が試される。 (2006年3月記) |
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