グローブ・イン (ダンフリーズ) に残されているバーンズの椅子

 

グローブ・イン (ダンフリーズ)

 バーンズ終焉の地となったダンフリーズ。町の中心部、ハイ・ストリートから細い路地を入ったところに「グローブ・イン」という一軒のパブがある。1610年の創業以来、現在もなお営業を続けている長い歴史を誇るパブだ。現在、バーンズの誕生日にスコットランド各地で行われている「バーンズ・サパー」も、1820年に「バーンズ・ホフ・クラブ」が発起人となって初めてここで行われた。

 バーンズの時代、この店は“タヴァーン(居酒屋兼宿屋)”として営業していた。バーンズはこの店がいたくお気に入りで、連日この酒場に足繁く通っていた。バーンズが収税吏の仕事を始めた頃、ダンフリーズ市内に住居を構えるまではここを常宿にしていたという。バーンズはここで過ごした時の様子も詩に残している。『グローブ・タヴァーン』がそれだ。

グローブ・イン入口  この店にはバーンズが使っていた部屋が残されていると聞き、混雑時を避けて店を訪れてみた。ラウンジ・バーでバーンズの好物だったハギスを食べ、バーンズ一色の店内を見回しながらしばしバーンズに思いを馳せてみる。この場所は、当時馬屋として使われていたのだという。

 帰り際、バーンズの部屋を見せてもらえないかと店の人に尋ねたところ、快く応じてもらえた。
最初に案内されたのが、バーンズの時代にはキッチンとして使われていたダイニング・ルーム。その横にはシックな木目とダーク・チェックの模様が印象的な部屋に続いていた。ここはバーンズが友人らと時間を過ごした部屋だという。スコッチ片手に友人と語り合うバーンズの姿が目に映るようだ。

 この部屋には、19世紀初頭に使用された陶器、彫刻、ガラス製品やボトルなどと共に、バーンズの詩や絵、胸像などが飾られており、暖炉の脇にはバーンズがいつも座っていた椅子(写真上)が置かれていた。
この椅子に座った人はバーンズの詩の一節を暗唱しなければならず、もしそれが出来なったらバーにいるお客さん全員に一杯ずつ振舞わなければならないそうだ。

 次にバーンズの詩や歌が飾られた階段を上り、2階にあるバーンズのベッドルームに案内された。
情熱家だったバーンズは、既婚の身にもかかわらず幾度となく複数の女性との情事を繰り返した。
正妻のジーンとの間に儲けた9人の子供の他にも5人の私生児がいたが、バーンズはこのグローブ・タヴァーンの主人夫婦の姪にあたるアンナ・パークとも関係を持ち、彼女との間にも1女、エリザベス(ベティ)を儲けている。バーンズはここで、アンナ・パークと親密なひと時を過ごしていたと言われている。

 1791年3月31日、アンナ・パークはバーンズの子エリザベスを出産。その9日後にはジーンがバーンズの息子、ウィリアム・ニコルを出産している。アンナ・パークの死後、幼いエリザベスはバーンズ家に引き取られ、ジーンの手によって育て上げられた。

 この部屋には当時バーンズが使用していた家具と共に、炉棚にはエリースランド農場で日々の仕事にあけくれる妻ジーンの銅像が飾られている。その正面にはあるのはバーンズのベッド。
バーンズが自分以外の女性と情事を繰り返したベッドを見つめ、ジーンは何を思っているのだろうか・・・。


大通りから店へと続く路地
ラウンジ・バー
バーンズのベッドルーム

 
バーンズ・ハウス ロバート・バーンズ・ハウス (ダンフリーズ)

 グローブ・インから聖マイケルズ教会に向かって5分程歩くと、バーンズが晩年の3年間を過ごした家がある。
バーンズは1796年7月21日、37年の短くも輝かしいその人生の幕をこの家で閉じた。

 この建物の前の通りは、かつて「ミル・ストリート」と呼ばれていたが、バーンズが居を構えたのをきっかけに、いつしか「バーンズ・ストリート」と呼ばれるようになったそうだ。

 この周辺で採掘された砂岩で造られたこの「ロバート・バーンズ・ハウス」(写真上)は、バーンズが最後の詩を書いた椅子、バーンズ直筆の手紙や原稿、キルマーノックやエジンバラで発行された作品といったバーンズの遺品が集められた博物館になっており、世界各地からバーンズを慕う多くのファンが訪れている。

 遺品と共に展示されているのが肖像画の数々だ。入口を入って左側にある小部屋には、家庭教師から教育を受けている幼少期のバーンズを描いた絵が、2階には1787年3月1日にバーンズがキャノンゲート・キルウィニング・ロッジで、桂冠詩人(Poet Laureate)の称号を与えられた時の様子が描かれた絵が掲げられている。

 一緒に展示されている当時の家具や、生活用品の数々からは生活の息吹が感じらる。赤ん坊の泣き声や暖炉の薪がパチパチと燃える音、バーンズがペンを走らせる音が今にも聞こえてきそうだ。


幼少期のバーンズを描いた
絵のある1階展示室
バーンズが愛用した机と椅子
ここで多くの詩や手紙を執筆した
桂冠詩人の称号を与えられた
時の様子を描いた絵

 
バーンズが最初に葬られた墓 バーンズの墓 (ダンフリーズ)

 ロバート・バーンズ・ハウスを出て、そのまま通りを左へ進んで行くと、交差点の先に赤茶けた砂岩の高い塔がそびえる教会が見える。ここがバーンズが眠る「聖マイケルズ教会」だ。

 生前から国民詩人として人気を博したバーンズの葬儀は大々的に行われ、棺は教会の門をくぐって左側奥の隅に埋葬された(写真右)。その墓跡は黒い柵で囲まれ現在も残されており、そこに「Site of Original Grave of Robert Burn」というプレートが掲げられているのですぐわかる。

 だがそれは、大詩人と評された人物の墓と呼ぶにはあまりにもお粗末だった。1803年、ダンフリーズにやってきたウィリアム・ワーズワースがバーンズの墓参りに訪れたが、その質素さから墓を見つけるのに一苦労したというエピソードも残されている。

 その後、ここを訪れたバーンズの崇拝者たちの間からも、その墓はバーンズには相応しくないないのではないかという声があがるようになった。それを耳にしたバーンズの友人、ジョン・サイムが1813年に委員会を立ち上げ資金を募り、1817年の9月に現在の霊廟が完成した。そして、バーンズの棺はこの霊廟に移された。

 その霊廟は、最初に埋葬された墓跡から右へ数メートル進んだ場所にある。
この教会はには没者の身分や富を象徴してか大きな砂岩の墓石が数多く見受けられるが、そこの中に真っ白な壁で覆われたひと際大きな霊廟が見えてくる。バーンズは、この霊廟の中に眠っている。

 棺の上には大きな花輪がいくつも添えられていた。聞くところによると、この花輪はバーンズの誕生日に「ダンフリーズ・バーンズ・クラブ」によって手向けられたものだという。この献花は19世紀のバーンズ生誕100周年に始まり、その後も節目の年に行われていたが、現在ではセレモニーの一環としてバーンズの誕生日に毎年行われているという。

 霊廟の前にはヒースの花(和名:エリカ)が植えられていた。決して華美ではないが、北の荒れた大地にひっそりと、そして力強く咲く、国花のアザミと並ぶスコットランドを代表する花だ。スコットランドをこよなく愛したバーンズに相応しい。

 2世紀半を経た今も変わることなく人々の心に宿るロバート・バーンズ。人々のバーンズに対する熱い思いが、この小さな花からも静かに伝わってくるようだ。
 
 

バーンズが眠る霊廟
墓碑にはバーンズが描かれている
聖マイケルズ教会

  ロバート・バーンズ・センター
 
 ロバート・バーンズ・センター (ダンフリーズ)

 ダンフリーズの町中を静かに流れる一本の川。そのニス川の畔にもバーンズを今に伝える建物がある。それが「ロバート・バーンズ・センター」(写真左)だ。

 18世紀の小さな水車小屋の中にあるこのセンターには、バーンズの直筆の原稿や遺品が展示されており、最後の煌きを放ったバーンズの晩年にスポットが当てられている。

 館内には1790年代のダンフリーズの町の縮尺模型が展示されており、ミュージアム・トレイルや様々なアクティビティーを通じてバーンズが生きた時代の様子を垣間見ることもできる。また、夜にはこの地方にまつわるフイルムの上映なども行われている。
 

 こうしてバーンズ・トレイルを巡っているうちに、不思議とそこで出会った人々との会話が増えていることに気づいた。

会話の中心にいるのは、やはりロバート・バーンズ。

バーンズ・トレイルの醍醐味は、バーンズを愛する人々とのこうしたふれ合いにあるのかも知れない。死してもなお存在し、人々の心を結びつけるバーンズ。そのカリスマ性に強く感銘を受けた。
 
 

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