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ホンダ・シビックのスポーツカー


 これだけ飲んでを飛ばすのだから、我が友は危険である。山を下るとサヴァ河に沿ってザグレブとは逆方向に遡り、ズダニモストから支流のサヴィニャに入ってラシュコに着く。

 今度はビールというので、ドイツの諺を引いて「ワインの後にビールは飲めない」と丁重に断る。これは日本酒とビールの間にも当てはまる。ドイツ人の生活の知恵ともいうべき諺で、蒸留酒は別として醸造酒に関する限り、濃度の薄いものから、つまりビールからワイン、日本酒という順序で飲まないと悪酔いをするという諺である。

 この後夕方の7時半からこの街の公会堂で行われた音楽界に誘われた。シャンソンとガーシュインなどアメリカのミュージカルが主体で、友人によると、今日初めて合わせたにしても演奏の息が合っていない、と手厳しい。ここにもドイツの友好都市の人たちが招かれており時々ドイツ語の歌も入った。

 丁度2時間で音楽界は終わり、河岸のピッツエリアでスリヴォヴィッツを注文したが、この店はウィスキー、ジンといった外国の酒しか置いていない。安酒を売っては勘定が合わないのだろうか。結局ドイツのイエーガー・マイスターというリキュールで打ち上げにした。

 ホテルでもう一杯と誘われたが、こちらは朝の九時にはクロアチアの国会議事堂に引っ張り出され、更にクロアチアの通貨クナを直接スロヴェニアの通貨トールに変えられると思い込んだのがトラブルの原因で、最後はようやくドイツマルクに変えられたものの、まだ通貨は完全に自由化されていないことを肌で知らさるという一幕もあり、くたくたでそのままベットに直行した。このトラブルは駅の交換所で起こったもので、市内にある銀行か交換所で予め交換することをお勧めする。

 クロアチアの国会議事堂ではこの日じつは歴史的な講演が行われ、まったくの偶然から大文豪ゆかりの家系で、今は英国の国会議員のトルストイ博士の謝罪演説を聞く機会を得た。第二次大戦直後に英国はクロアチア人を中心とするドイツ軍に協力した捕虜をオーストリア国境で、チトーのパルチザンに引き渡した。

 ところがパルチザンはこの捕虜を「死の行進」で裁判もせず、ほとんど殺してしまった。もし英軍がこの捕虜を引き渡さなかったならば、という仮定でのトルストイ議員の謝罪である。


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