ゲーテ終焉の地、ワイマール

更新日 : 2014年07月15日

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フラウエンプラン1番地にあるゲーテの家

ゲーテの部屋

ゲーテが息を引き取った部屋

フラウエンプラン1番地にあるバロック様式の邸宅(1709年建造)は、ゲーテが1782年から1832年に亡くなるまで暮らした家だ。
邸宅には馬車が乗り入れできる位の幅の細い石畳の道があり、左右の建物がその道でリンクした形になっている。チケット窓口は左側の建物内にあり、見学コースは右側の建物に用意されている。

邸宅内はほぼ当時のまま保存され、ゲーテと妻の居間や寝室、書斎、ライブラリー、研究室などが公開されている。こちらもガーデンハウス同様、淡いローズピンクやグリーンの壁が印象的で、ゲーテの繊細な一面が感じられる。

この邸宅の最大の見どころは、やはりゲーテが息を引き取った寝室。この部屋には、その時ゲーテが座っていた肘掛けイスが置かれている。享年82歳。戯曲『ファウスト』を書き上げた翌年のことだった。この死の瞬間、ゲーテが発した「もっと光を!」という言葉は、あまりにも有名である。ゲーテの棺は、1825年から1827年にかけて建築家のクレメンスによって建造された古典主義様式の大公家の霊廟内に、盟友シラーの棺と並んで安置されている。

自然をこよなく愛したゲーテらしく、やはりこの邸宅の裏にも1本の大きな樹木が目を引く広い庭がある。ゲーテはここにたくさんの植物を育てていた。手入れが行き届いたこの庭には、今も春になると色とりどりの花が咲き乱れている。

ゲーテの家は、文化財保護の理由で毎日の入場人数に制限が設けられている。また、左側の建物には、官吏としての政治的役割からスケッチ活動、さらには植物学の研究に至るまで、ゲーテの多才さを類い稀な空間で紹介する「ゲーテ国立博物館」が併設されている。


戯曲『ファウスト』の虜になった作曲家フランツ・リスト

リストの家

リスト愛用のグランドピアノが置かれた居間

作曲家フランツ・リストがゲーテの戯曲『ファウスト』と出会ったのは、リストがパリに住んでいた1830年も終わろうとしていた頃。友人のベルリオーズに勧められたのが、そのきっかけだった。リストはすっかりその世界に魅了され、『ファウスト』は彼の愛読書となった。

そんなリストが宮廷の特命音楽大監督に任命されワイマールにやって来たのは、ゲーテの死後の1842年、リストが31歳の時のことであった。
37歳の時(1848年)にワイマール宮廷楽長に就任したリストは、熱愛していたロシア貴族のカロリーネとワイマール近郊に住居を構え、多くの曲を書き上げた。この時期が、リストの生涯にとって最も創作活動が盛んな時期となった。イルム公園の一角には、リストが1869年から1886年まで夏の間暮らした家がある。ここはかつての宮廷造園館で、リストが弾いたグランドピアノのある居間や寝室、食堂、使用人部屋などが公開されている。

世界各地の芸術家に影響を与えたゲーテ。ベートーヴェンをはじめ、メンデルスゾーンやシューマン、マーラー、シューベルト、ベルリオーズ、グノー、そしてチャイコフスキーなど、親交のあった作曲家だけでも数を挙げればキリがない。1854年8月にはリストも、合唱を伴う交響曲『ファウスト交響曲(3人の人物描写による)』の作曲を本格的にスタートしている。

リストが『ファウスト交響曲』を完成させ、その初演が行われたのは1857年、ゲーテとシラーの記念碑の除幕式の祝典であった。この時リスト本人の指揮で上演され、賞賛を得たという。その『ファウスト交響曲』以外にも、リストは『ファウスト』と同一の題材に基づくレーナウの叙事詩から『メフィスト・ワルツ第1番』、戯曲『エグモント』の第2幕より『喜びでいっぱい そして悲しみでいっぱい』など、ゲーテ作品を題材にした曲を作っている。

ワイマールには、このリストの後押しによって1872年6月24日に開校したフランツ・リスト音楽院がある。夏の間のみ公開されているリストの家では、第1・3週の月曜にここに通う音楽学生による演奏会が行われている。演奏会で使用されるピアノはもちろん、リストが愛用した歴史的にも価値の高いグランドピアノであることを、最後に付け加えておこう。


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