文学者のみたローマ
ギボン、スタンダール、ハイネ、ゲーテ
「『ローマ帝国衰亡史』の著者の私としては、自分が消費した時間もしくは金銭を後悔する余地がない。何となれば主題の選択を決定したのは私が実際にイタリアとローマをその目で見た体験だからである。
私の日記にはその受胎の場所と瞬間が記録されている。それは1764年10月15日の夕暮れ時に、私がゾコランティつまりフランシスコ修道士の教会に座して黙想していた折りしも、彼らがカピトリーノの廃虚のユピテル神殿で晩祷をする声を聞いた時であった………」。
これがギボンの名著が生まれた経緯を記した自伝中の文章です。
すぐさま、「日記には何も書かれていない」とか、この日の同行者によると、「カピトリーノの丘に登らなかった」とかの議論が巻き起こっています。
18世紀から19世紀の初めにかけて、英国ではイタリア旅行が、現代の日本の農協もびっくりするほどの大ブームだったようです。
そこの所をうその名人、スタンダールに登場願うと、
「12月25日、クリスマス。このうえもなく美しい太陽。パリなら、9月はじめの爽やかな日というところだ。わたしはサン・ピエトロ寺院の壮麗な儀式に参列する。音楽を除いて、すべてが堂々としている………。
わたしは参観者の右手、板でつくられた階段座席の下にいた。その席には200人の婦人がいた。2人のローマ女性、5人のドイツ女性、そして190人の英国女性であった。教会内のそこ以外には、ひどい姿をした100人ばかりの百姓のほか誰もいない。わたしはイタリアで英国旅行をしている。これらの婦人たちの大部分は儀式の美しさにたいへん感動していたので、その心が、篭のなかに隠れて歌う神聖な去勢鶏の滑稽さを感じとるのは、いくらか困難だった。システィナ礼拝堂と同じである。考えるに、彼らは式典司宰者たちのさえずりの伴奏をするにすぎないと見なされている」。
スタンダールの旅行記では、1817年の出来事とされていますが、1811年のイタリア滞在が実際の背景となっていて、1816年に世に出たゲーテの『イタリア紀行』に触発されて書かれたといわれています。
この英国人の旅行者の洪水はその後も続いて、1828年にミュンヘンからインスブルック、さらにブレナー峠を越えて、ヴェローナまで、ほぼゲーテと同じ道筋を辿り、ここからミラノ、バーニャ・ルッカへと旅したハイネは、『旅の絵』の中で次のように記しています。
「親愛なる読者よ、この本で私は頻繁に英国人について語っているが、どうか英国かぶれなどと言わないでほしい。イギリス人はいま、イタリアに見渡しがたいほどたくさんいる。連中は大挙群れをなして国中をくまなく歩きまわり、ありとあらゆる旅館に投宿し、なんでも見てやろうと至るところを走りまわっている。」
では肝心のゲーテはどうかというと、ヴェネティア滞在中の1876年10月12日付けで次のように記しています。
- 「昨日聖ルカ劇場で新作劇の(イタリアにおけるイギリス気風)が演ぜられた。イタリアには沢山のイギリス人が生活しているので、彼らの風習が目につくのは、当然のことである。そして私は、イタリア人がこの富裕な、彼らの歓迎する賓客をいかに観察しているかを経験できることと期待したのであるが、それはまったくつまらないものであった。例によって二三の効果的な滑稽な場面はあったが、その他はあまりに重苦しく真面目くさっていて、イギリス気質の片鱗も認め得なかった。ありふれたイタリアのお談義口調で、しかもそれが低級なものばかりを相手にしている」。
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