大野ただしの南イタリア周遊記

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ブリンディシとレッチェ

港町ブリンディシ

ブリンディシにはアッピア街道とトラヤヌス街道の終点を示すコロンナ・ロマーナがある。しかし、残念ながら、現在修復中である。場所は港からドゥオモへ上る坂の中ほどに位置している。この先はアドリア海を隔ててギリシャかと思うと夢が膨らむ。

3月16日は土曜日に当たり、目抜き通りのガリバルディ通りは夕暮れになると大変な人出で賑わっていた。ここもバルレッタと並んで十字軍の出港地であり、フリードリッヒ二世の第6次十字軍(1228年)はここから出発した。

レッチェは長靴の踵の部分に当たるテール・ドートラントの中心都市である。
この街に着いて私が真っ直ぐに向かったのは、タンクレディが1180年に建てたサンティ・ニコロ・エ・カタルド教会だった。市の西北の共同墓地の奥にひっそりと立つこの教会は、ノルマン王朝最後のシシリア王によって、彼がまだレッチェ伯のときに建てられた。木々が立ち並ぶ長いプロムナードを歩いて、右奥にその教会はあった。ロマネスクの象徴ともいえる小さなバラ窓は残されているが、18世紀に修復されたといわれ、内部は華美に飾られていた。ただ基本的な骨組みは昔のままで、四本の柱を一本に束ねてその上にアーチを組み、キューポラがのっている。なおブリンディシ郊外にもタンクレディが息子の結婚式を記念して作ったと伝えられる泉が残されている。

バロック建築が見物の
レッチェの町
レッチェがオートラントに代ってテール・ドートラントの中心になるのはこのノルマン人たちによってである。その後この街を有名にしたバロック建築が16世紀のカール五世の統治によってはじまるのも、同じノルマンの血を引きながらこの地ではスヴェヴォ、つまりシュヴァーベン朝と呼ばれる、ノルマンにとって代った王朝のフリードリッヒ二世の影響を思わざるをえない。同じ神聖ローマ皇帝としてカール五世も、神聖ローマ帝国の伝統を、バロック建築という形で、この地に植え付けようとしたのだろう。しかし、彼はスペイン王でもあったのでレッチェばかりでなくターラントにもスペインの影響が色濃く残ることとなった。

話は脱線するが、ターラントでは、復活祭の聖体行列が白い衣装をまとって街を練り歩く。いや正確にはすり足でゆっくり、ゆっくりと歩いて行く。この行列を見て、私が、「スペインのマラガで復活祭に見た聖体行列によく似ている。ただ向こうは黒い衣装を着けていた」というと、「ここの行列はセヴィリアと全く同じと聞いています」という答えが返ってきた。これもカール五世の影響なのだろう。

レッチェに話を戻すと、サンタ・クローチェ教会にはじまってバロック建築の傑作が、ドゥオモ、サンティレーネ教会、サン・マッテオ教会と枚挙に暇がない。これらの建造物では、この地で産出される、加工しやすい石灰石が大きな役割を果たしている。


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