大野ただしの南イタリア周遊記

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テール・ドートラントの町々


教会からマリーナ・ディ・
レウカの町を見下ろす
レッチェから南に伸びる長靴の踵に当たるサレント半島は昔からテール・ドートラントと呼ばれている。ノルマン人がレッチェをこの地方の中心とする前には、オートラントが中心だったことを示す言葉である。

この半島の先端は、今まで旅してきたアドリア海と長靴の底に面したイオニア海とを分けている。そこはサンタ・マリア・レウカと呼ばれ、同じ名の巡礼教会が建てられている。ここはイタリアの東のはずれ、この先ははるかにギリシャがある。

この教会から西を見下ろしたところにマリーナ・ディ・レウカの町がある。私がこの町を訪れたのは3月18日で、まだシーズン・オフだった。ここでは復活祭になっても観光客は来ないという。暑い夏だけが勝負の海水浴場だった。お目当ての安いペンションは皆クローズしていたが、シーズン・オフでもあり三ツ星のホテルが25ユーロで泊めてくれた。ダブルの広々とした部屋で久しぶりに寛いだ気分になった。

しかし、問題は交通の便で、ここに居ては車なしではどこにも行けない。泣く泣く翌朝一番の唯一のバスでレッチェへ引き返した。レッチェはイタリア国鉄の終着駅で、ここから私鉄の南東鉄道が半島の各地へ向けて発着している。

最初はイオニア海側のガリポリの町。旧市は一本の橋で本土と結ばれている。その橋の袂にある「ギリシャの泉」が「マグナ・グラエキア」を偲ばせる唯一の遺跡だった。
旧市の中心には、ここでもドゥオモがある。平天井をアーチで支え、その下にギリシャ様式の太い一本柱が並んでいた。町は活気に満ちていた。この町の観光名所には、英、独、仏、伊と四か国語で詳しい説明板が立てられていた。しかし、町の観光案内パンフレットは品切れだった。

案内所で薦められたレストランは、行って見ると、「アル・ペスカトーレ」というホテルの中にあった。一瞬これは高いぞと覚悟を決めたが、「海の幸スパゲッティ」が5ユーロお、0.5リットルの白ワインが1.5ユーロ、それにオリーブ入りのパンがとても美味しくて、占めて8ユーロは大変安上がりの昼食だった。ワインのリットル当たり3ユーロは非常に安く、北イタリアでは、1/8か1/4リットル当たりの値段に相当する。

オートラントの旧市
翌20日はオートラントを訪ねた。この地方がテール・ドートラントと呼ばれるように、ローマ時代からこの地方の中心地であった。この町が没落するのは、「オートラントの殉難」と呼ばれる1480年8月14日のサラセン人による虐殺以後のことである。

プーリア州最大のカテドラーレに入ると椅子が取り払われ、床一面にモザイクが描かれている。文字の読めない庶民にキリストの教えを分らせるための作品である。この教会の向かって右奥の祭壇に頭蓋骨がうずたかく積まれているが、これが「殉難」の犠牲者の遺骨である。この人たちが処刑された場所は郊外にあるミネルバの丘である。

ガリポリもオートラントも付近の海岸は、夏には海水浴客で埋まるという。ナポリまでの北、中イタリアが復活祭の訪れとともに北からの観光客で一杯になるのと好対照に、この地方ではもう少し暑くなるまで閑散としている。


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