エストニア独立回復30周年 祝賀イベントのハイライトは「シンクロ合唱」
エストニア独立回復までの道のり
初期のエストニア独立
エストニアは、何世紀にも渡り周辺を取り囲む大国の支配を受けながらも、「独立」を目指して努力を続けてきた国。その国民の願いが初めて実現したのは、帝政ロシアからの独立を果たした1918年2月23日のことだった。
この日、現在エストニア屈指のリゾート地として知られるパルヌの町にあるエンドラシアターのバルコニーから、エストニアが主権国家であることを宣言するマニフェストが読み上げられ、その近くにいた群衆は後に国歌となる「Mu isamaa, mu õnn ja rõm (= My fatherland, my happiness and joy)」を一斉に歌った。
その翌日、タリンにマニフェストのニュースが伝わり、一般向けに文書が発行された。そして、そこに独立国家エストニアが誕生。この2月24日は、エストニアの「独立記念日」として今日も祝されている。
ニューウェーブ
その後、1940年に今度はソビエト連邦(以下、ソ連)に編入されてしまったエストニアだったが、1980年代後半になると国民の間から再び独立への気持ちが力強く蘇ってきた。
ペレストロイカ政策の下、ソ連邦内ではより自由な改革が行われていたが、1987年9月26日にエストニアの経済的自立のための提案が、タルトゥの新聞『Edasi』(エストニア語で「前進」の意)に掲載された。
歌う革命
そうした中、1988年5月にタルトゥの音楽祭で「5つの愛国歌」が初めて演奏され、6月にはタリンで「旧市街祭」が開催。公式フェスティバルの後、タリンの歌の祭典の広場では愛国歌を中心とした数々の歌のイベントが行われた。
1988年9月11日、約30万人のエストニア人(当時の人口のおよそ3分の1)がタリンにある歌の広場に集い、全国規模の歌の祭典が開催された。これら一連の出来事は、後に「歌の革命」と呼ばれるようになった。
バルト三国の人々にとって「合唱」は強さと同時に、国民の団結力の源でもあった。この年にナショナリズムは最高潮を迎え、歌はソ連の覇権に対する抗議の表現手段となった。
バルティック・チェーン(人間の鎖)
この「歌う革命」とともに、エストニアの独立を大きく後押ししたのが「バルティック・チェーン」。1989年8月23日、およそ200万人にもおよぶエストニア、ラトビア、リトアニアの人々が街頭に立って手をつなぎ、約670キロわたり「人間の鎖」を作った。
独ソ不可侵条約締結50周年の日を意図的に選んで行われた「人間の鎖」は、世界各国から、特にモスクワからの注目を集め大成功を収めた。
新たな独立
その集大成ともいえる出来事が起きたのが1991年。エストニアの復権を求める声が高まり、8月のモスクワでのクーデターを経て、1991年8月20日にエストニア最高評議会が事実上の独立回復を採択。そこに再びエストニアの独立が宣言された。
現在、この日は「独立回復記念日」として、エストニアの祝日になっている。