香港ワンダー・コラム
香港の原住民は何処からやってきたのだろう?という疑問がある。しかし広大な中国大陸の沿岸にへばりつく小さな点のような香港である。当然、香港の原住民は大陸から移動してきて定住した人達に違いないと思うのが自然であろう。
香港の周辺では新石器時代のものと思われる岩石彫刻が少なくとも8ケ所で発見されているし、考古学の専門家の発掘調査で数千年もの昔から香港に人が住んでいたことが分かっている。しかし岩だらけの不毛の地で何を糧として生きてきたのだろうか?
最も初期の住民はユエ(Yueh・越)族と呼ばれ、もっぱら漁で生活をしていたらしい。その水上集落の遺跡が一部の入り江に残っているとのことである。香港のタンカ(蛋家)系漁民の先祖はこのユエ族だったといわれている。
香港とその周辺地域が中国に吸収されたのは約2千年前らしいが、その頃の記録は何も残っていない。香港に関する記録で最も古いものは、約1千年前の中国王朝関係の古文書に記されている「屯門」(チュンムン)に関するものだという。
新界西南部の沿岸に位置し、ランタオ島北部のチェックラップコックに建設された香港新国際空港を目の前に見る屯門には、その古文書によると、その頃軍隊が常駐していたらしい。屯門はすぐ北のデイープ・ベイ(ハウ・ホイ・ワンー后海湾)とパール・リバー(珠江)の河口を扼する要衝として重視されていたのであろう。
軍隊の駐屯地といえば、新界の東側の大きな湾、吐露港(トロハーバー)の沿岸の大埔(タイポー)にも軍隊が常駐していたといわれる。その頃トロハーバーでは真珠がとれたので、この軍隊の駐屯はこの真珠の採集を管理することにあったらしい。真珠は原住民のタンカ漁民のダイバー達が採っていたといわれている。
大埔は新界で最も古い商業の街として知られているが現在は真珠と結び付くものは何も残っていない。屯門も、近くに本格的なリゾートホテルがあり、空港を目の前にした新界のニュータウンとして将来の発展が約束されている。
余談だが、ここでふと新界の西側の、デイープ・ベイ(后海湾)に面した流浮山(ラウファウサン)で見た大量の巨大養殖牡蛎を思い出した。ここでは何百年も前から沖に連なるかに見える遠浅の海岸を利用して大々的に牡蛎を養殖していたのである。
最近は往時の面影はないが、しかし、約20年以上前、私が始めて訪れた時はそれでもかなり活気を呈していた。しかし、その養殖の方法は一種独特らしく、そこの牡蛎は『絶対に生では食べるな』と注意されていたものである。仕分け所一帯にこもる悪臭とその異様な大きさは、煮ようが焼こうが、私の「食欲」はもちろん、近くのレストラン(裕和塘酒家)で「話の種にチョット味わってみよう」という好奇心すら奪い去ってしまった記憶がある。
その昔、新界の東側(流浮山の反対側)の、真珠の採れたトロハーバーでは牡蛎もとれたのだろうか? 何百年も前、流浮山で大々的に牡蛎の養殖を始めた動機は何だったのだろう? などと思いを巡らす。