鉱山とボビンレースの町、イドリヤ

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 鉱山とボビンレースの町、イドリヤ
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed



自然光が届かない地下深くに広がるアントウニー鉱坑


 世界第2の生産規模を誇ったアントウニー鉱坑


リュブリャナの西、ゴリシュカ地方の山間にあるイドリヤは、かつて水銀採掘で繁栄した町だ。
その歴史は水銀が発見された1497年にまで遡り、1580年には政府により本格的な採掘が行われた。鉱山は通年稼働し、初期の頃には1日約12時間の労働が坑夫らに課せられていたという。

坑道のガイドは観光を学ぶ地元の学生

鉱山は1977年に閉鎖されたが、水銀が液体と硫化水銀の両方の状態で産出される世界でも数少ないこの場所では、かつてアルマデン鉱山(スペイン)に次ぐ世界第2の生産規模を誇っていた。この村で掘り出された水銀は世界各国へ輸出され、その一部は遠く日本までも運ばれていた。

この水銀の産出によって国の経済は潤い、旧ユーゴスラビア諸国の中でもスロヴェニアは最も豊かであった。
また、“イドリア”と呼ばれていたハプスブルク統治時代も、この鉱山がもたらす莫大な利益により、町は税制など様々な面で優遇措置を受けていたとう。

先述した通りこの鉱山は閉鎖され、すでに採掘は行われていないが、上層部のアントウニー鉱坑と呼ばれる部分が観光用として一般公開されている。坑道には、当時の坑夫たちの作業の様子がわかりやすく展示されていて興味深い。この坑道の見学には約1時間半のツアーに参加する。

見学者は貸し出される作業服に見立てたジャケットとヘルメットを着用し、かつて坑夫たちが作業場への上り下りに使っていた入口から続く洞穴の突き当たりにあるチャペル横の階段を下りていく。
自然光がまったく届かない地下深くで一日の過酷な労働を終え、重い水銀を持って地上へと戻ってきていた坑夫らの労が石段から伝わってくる。


    

坑夫たちの点呼が行われた部屋 / 坑道入口 / 坑夫たちはこの階段を使って地下深くの作業場へ



水銀と聞くと、日本人としては水俣病を思い浮かべるが、やはりこの鉱山でも落盤事故より水銀中毒の被害の方が大きかったという。その多くが作業中に、水銀が指先から体内に浸透する事によるものだった。

イドリアでは坑道の閉鎖後も、市や周辺地域の水銀による環境汚染問題を抱えている(*1)ことから、地元のジョゼフ・シュテファン研究所が現在も水銀による環境汚染に関する研究を活発に進めており、日本の水俣市でもスロヴェニアから研究者を招いたフォーラムを開催している。(*1 坑道の見学や町の観光には一切影響はない)

過酷な労働や水銀中毒などにより坑夫らは短命で、大酒飲みが多かったという。
そうした坑夫らを支えたのが、イドリアの女性たちだ。坑夫たちが鉱山で働く間、村の女性たちが集って歌を歌いながらボビンレース(チプカ)をし、男衆の帰りを待っていた。


次へ 1 2


このページの先頭へ